草原と砂漠を駆ける

第Ⅱ部 ラリー・モンゴリア追走雑記

※②知恵の結晶・ゲル、③騎馬軍団の移動、④砂漠の花、⑤悲壮に生きる樹木、⑥危険な蝿。目玉に卵(幼虫?)を噴射、⑦草原を駆ける馬、⑧草原に生き天に昇る、は準備中です

①大自然とともに生きる

キャンプ地の夕方、まばらに草の生えた草原でボンヤリと時間を過ごした。遥かバイカル湖へと注ぐトゥラー川がゆったりと流れ、川沿いの草だけが幾分、色濃く、ところどころに樹木もある。ゲルの近くに子を産んで間もない牛がつながれていた。

間もなく主婦とおぼしき女性がゲルから出てきて、子牛を囲いから放した。母牛に駆け寄る子牛にちょっとだけ乳を飲ませ、引き離してから絞り始めた。子牛に飲ませることで乳の出を促し、絞りやすくしているのが分かった。

2人の少年が馬に乗って帰ってきた。
「遊んでないで羊を集めなさいよ」とでも言ったのだろう。かなり離れたラリーのキャンプ地へ、見物に行っていた少年に、身振りを交えて声を挙げた。少年はひょいと手綱を引き、馬の向きを変えると、軽く立ち上がって馬を彼方の草原へと走らせた。

広大な草原のあちこちで、牛、馬、山羊、羊などが集められていた。犬も達者に駆け回り、羊を集めるのに一役買っていた。臆病な家畜たちは群れをなす。囲いへ入れている所もあるが、多くはまとめておくだけだ。家畜たちも安全な夜を過ごすのには、追い立てられるがままに、1カ所にまとまった方が良いことを本能的に知っているようだ。

モンゴルは凄まじい戦いの歴史がある。ヨーロッパまで進出し、アラブを席巻した。チンギス・ハーンからその子孫たちの時代には、中国をも支配下に置いた。南宋を制圧(1272年)、元を樹立しインドシナ、ジャワまでも南下した。チンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンは朝鮮半島から日本へと食指を延ばし、1274年、1281年の2度に渡って日本を襲うが1回目の4万人・900隻、2回目の14万人・4400隻は台風にあって壊滅している。いわゆる「元寇の役」だ。その後もチンギス・ハーンの血を引く一族は、ロシア、中央アジアなどで国を造っている。

放牧された家畜やゲルでの生活を見ていると、そうした侵略の歴史とは無関係にさえ思える。中国とソ連の思惑の狭間で、内モンゴル、新彊ウィグル自治区を失い、その後もソ連、中国の影響を受けながら年月を過ごした。モンゴル平原の首都ウランバートルでは、政変も繰り返されたが、現在は共産党、民主党が2年交代で首相を指名する方式で落ちついている。共産党といっても保守的で、むしろ民主党の方が革新的だとも聞いた。

広大な平原とはいうものの、モンゴルの平均標高は1400㍍。4000㍍を超すアルタイ山系の山々から、600㍍弱の“低地”まである。ゴビ砂漠はおおよそ1200㍍前後、ウランバートルは1400㍍ある。国の面積は156万5000平方㌔、日本は37万7800平方㌔人口はモンゴルの254万人にたいし、日本は1億3000万人。希薄な人口は自然の厳しさをも示している。ソ連統治時代に農業生産が奨励されコルホーズなども作られたが、やはり大がかりな農業に適した国土ではないようで、多くは放置されてしまっている。

栄光の歴史、屈辱の歴史をない交ぜにして、どこの国も時が流れていく。馬に乗り、ゲルに住み、遊牧する人たちは次第に減り始めているとも聞いたが、草原や砂漠に住む人たちの生活そのものは、歴史の流れの中で、家畜を育て、ともに生きる逞しさがある。大自然が崩壊しない限り、彼らの生活は悠久の自然とともにあるように思った。