

ガイドの衣装もモーツアルトの時代

デュッセルドルフで乗り継ぎ、弥次喜多の海外旅は振り出しに立っています。ウィーンの街はなかなか綺麗で、水と樹木と古い建物が市街を引き立たせています。今日は夜だしちょっと街に出てみましたが、面倒なのですぐ戻り、明日に備えます。明日からは3日間、同じ宿なので少しはゆっくりできるでしょう。はじめは明日からの宿に予約を入れたのですが、キッチン付きのアパートメントホテルで、フロントは8時までしかいないと後でわかったので、今日だけ予約し直したのです。
着く日はどうも面倒です。飛行機が遅れることも珍しくはないので、8時で鍵を渡してもらえないのでは、どうにもならないのでホテルにしたのです。古いホテルですが旧市街の中心部にあり、なかなかです。窓から協会の尖塔が見えて、雰囲気もあります。今日はこれでおしまいです。明日から見物をボチボチと始めます。

昨日の到着が遅くなる可能性があったので、アパートメント・ホテルはやめて、古いホテルに泊まり、今日になってアパートメント・ホテルへ移動しました。古いホテルも天井が高く、バスの湯量も豊富で快適でしたが、移ってきたアパートメント・ホテルは、予想通り広いし、自由がきくのがいいのです。目の前にスーパーマーケットの小さいのがあり、食料品は十分です。聖シュテファン教会まで歩いても10分はかからない距離です。広いものの宿です。とりあえずここへ3日ほどいて、次の目的地を探すことにしています。

大聖堂の付近は道路といい、広場といい、実によくイタリアのフィレンツェの大聖堂のあたりに似ています。同じメディチ家のグループが作った街なので、設計も何も本家と似てくるのでしょう。教会を一回りして、ペスト祈念塔の近くでお茶を飲み、教会前に戻ってみると、時間もあるし、教会の中へ入ってみようから、鐘楼へ上ってみようとなって、教会内部へ入りました。入るまではタダですが、礼拝の際に聖職者の立つ台や王の遺骸を葬った石棺などを見るには、6ユーロだったか、忘れましたが払いました。昔はもちろん無料でしたが、観光客が増えるにつれて、保損や清掃も大変でしょう。仕方がないことです。

鐘楼へはエレベーターがあります。一人6ユーロです。ベネチアでもフィレンツェでも、エレベーターはないので、上るのに大汗ですが、ここでは50㍍の高さまで、一気に運んでくれます。ただし大人は5人が精一杯の小さなエレベーターが一つあるだけなので、シーズンにはとても乗れたっものではないでしょう。展望は一部教会の屋根に遮られますが、周囲70度くらいは見渡せるし、下の様子もわかります。観光客を運ぶ馬車が、客待ちで2列に並んでいるのは、F1レースのスタート前を連想させ、笑ってしまいました。
聖堂の後はオペラ座へ行きました。偶然にも日に一度の「日本語による場内案内」が午後3時からありました。3時10分ほど前に、オペラ座の周囲をの写真を撮っていたら、長列があり、案内板を見ると1日に1回しかない日本語による案内があると書いてあったのです。渡りに船です。結構大勢の日本人が、すでにその場に集合していました。65歳以上は一人6.5ユ

ーロで、半額近い割引です。ギリシャは「外国人には老人割引が適用されません」とつれなかったけれど。ウィーンはどこの国の人でも割引を受けられます。後期高齢者のジジ・ババは大威張りで割引適用です。
日本語で案内するウィーンの女性は、ウィーンフィルのコンサートマスター小澤征爾さんが、数年前に病気のために日本へ帰ったこと。ウィーンのオペラ座の最大のスポンサーはトヨタ自動車だと言うことなども語っていました。日本ではごく一部にしか、トヨタがウィーンのオペラ座のスポンサーだということは知られていません。もっと宣伝してもいいし、マスコミもアピールしてほしいものです。日本人として何となく嬉しいじゃないですか。ものを売るばかりでなく、きちんと大切な文化の維持にカネを使うのは、素晴らしいことだと思います。

市内の中心部をバスと歩きで巡りました。幾分の高台にあるのがシュテファン大聖堂で、王宮はほんの僅かですが、聖堂よりも低いように感じました。バスに乗ったのはオペラ座の側ですが、結構、走りに走ったように感じても、それほど遠くまで走っているわけではないのです。とにかくj、ウィーンの街は一方通行がやたらと多く、今宿にしているところまで、Hertzで車を借りて走ってくるとすると、ほんの100㍍、時には30㍍で右折や左折を繰り返さないといけません。

前の宿からタクシーで今の宿に移ったのですが、ボルために走り回っているのではないかーなどと思いかねない走り方です。あらかじめパソコンで走行ルートを見ておいたので、左右折は仕方がないと思っていましたが、あまりの多さに驚きました。

500年も同じ家系がヨーロッパに君臨していたのが、ハスクブルグ家で、街や建物は第二次大戦で大きな被害を受けたのですが、あまりその影響を残していません。それにハスクブルグ家の庇護を受けて、音楽をはじめとする芸術は、急発展して、今にその名残を感じさせます。
フランス革命の時に、ルイ16世の妻であると言うだけで、ギロチンで処刑されたマリー・アントワネットはウィーンの生まれだったと思います。母親のマリア・テレーズは絢爛豪華な生涯でまさか娘がギロチンにかけられるなどとは思ってもいなかったでしょう。時の流れは人々に、思わぬ幸運や不運を押しつけます。しかし、500年も支配する一族が同じだった例は、聞いたことがありません。
モーツアルトはブルク公園にあり、芝生の中に花壇を作り、花が音符を象徴するように咲いていました。市民公園には、美しき青きドナウ、で知られるヨハン・シュトラウスなどの像があり、ブルグ公園とはかなり異なったところです。(写真=上・ヨハン・シュトラウス、右・モーツアルト、左・マリア・テレーザ像)

2014/06/07

ウィーンの中心部から約5㌔のところにあるシェーンブルン宮殿へ行ってきました。さすがハプスブルグ家の宮殿です。市内の王宮はもちろん立派ですが、シェーンブルン宮殿は、パリ区外のベルサイユ宮殿にも劣らないものを作れ―、と言う女帝・マリー・アントワネットの命で、設計のやり直しがあったようです。
午前中にタクシーで門の前まで行き、入り口の左にある、昔なら衛兵詰め所のような建物でチケットを買い、拾い前庭を歩いて左寄りの入場口から宮殿に入りました。ベルサイユ宮殿と同じように、どこかの部屋へ行くには、どかの部屋を通り抜けなければなりません。日本のように廊下が巡らされてはいないのです。

宮殿内は撮影禁止です。50年前にババが来たときには、どこでも撮影はもんだいなしです。当然のこととして観光客が、やたらと増えたので、マナーも何も、にもわかっちゃいない「アジアの近隣二カ国」のグループは、声を上げてわらったり、話したりです。普通はこう言うことはしないように学校で教えるはずですが、それよりも「金儲け」に舵を切っている国なので、観光地ではどうするのがいいのか。博物館、美術館などでは、余計なことはしゃべらない―、などという観光客が当然わかってなければいけないことも、分かっちゃいない、のでしょう。

宮殿前には馬車が数台並んでいました。始動していてエンジン音=馬の息づかい=は聞こえますが、肝心な船頭=馬方=が、まだ戻ってこないのです。いずれにしても、馬方は戻り、宮殿の外周を巡ります。30分ほどかけて宮殿の敷地を一周します。
庭にも入って見ました。バラ園は綺麗ですが、広大な庭はさらに見事です。草花が植えられ、遠くに噴水があり、大勢の人が三々五々歩いていました。夕方、モーツアルトの住んでいた家に行ってみました。天才少年は、大聖堂に近いところに住んでいました。名曲のいくつかは、この建物の中で産声を上げたのです。
明日はちょっと強行ですが、600㌔少しある、インスブルックまで走ります。一昔前は600㌔くらい「屁のカッパ」などと言ったものですが、後期高齢者にランクされてからは、さてどうでしょう。一気に走れるかどうか…。今度はババもハンドルを握るので、遊びながら、休み休み、10時間ほどを予定して走って行こうと思います。

2014/06/08

ウィーンからインスブルックまで、600㌔ほどを走ってきました。オーストリアのザルツブルグから、少しドイツのアウトバーンを走り、ミュンヘン近くからインスブルックに向かいました。途中、大きな工事があり、西へ向かう車のすべてが、一旦、北のドイツ方面に走らされ、かなり迂回する形で、インスブルックへの高速に戻りました。ザルツブルグやインスブルックの標示さえ見落とさなければ、まずは大丈夫といつもの通り、脳天気を決め込んで走りました。
インスブルック空港の北側の高台に宿はありました。空港を見下ろし、その先は山が続き、奥にはオーストリア・アルプスの峯が、岩肌の所々に雪を残して聳えています。山の名前や周囲の状況は、昔、車で走ったくらいですから、もちろん分かっちゃいません。この地域の地図でも買って調べながら遊ぶつもりです。この宿には3泊の予定ですが、様子によっては延長するかも知れません。
一気に走るには「後期高齢者」のコンビでは大変かな、と思いましたが、それほどでもありませんでした。そういえば、アウトバーンで突然、渋滞です。パトカー、救急車、レッカー車がすっ飛んでいきます。ドライバーは道脇のギリギリまで車を寄せるので、2車線の中央にもう一車線のレーンができあがります。ドイツでは緊急車の通行を妨げると、酷いペナルティーがあるようです。
のろのろ運転でも全車線は閉鎖しません。一車線だけゆっくり通し、事故車両の処理に当たっています。荷物を積んだ小型トラックが、左側に腹を見せて引っ繰り返っていました。トマトなどの農産物が散乱していました。3台の絡む事故のようですSUVは前が大きく壊れ、もう一台は左の脇腹に、したたか食らったへこみが見えました。写真を撮りたかったのですが、運転しているとカメラを使うわけには行きません。10分ほど前に救急車は真ん中の、普段は無いラインを走って行ったのですが、事故現場にはもう救急車は見えませんでした。
大きな事故ですが、処理は素早いです。日本なら全線をストップさせて、警察は細かく検証しますが、ドイツでは全線ストップなどという「愚挙」はしません。日本の裁判は弁護士も裁判官も、それを遠くから見るマスコミも、神経質すぎます。事故は起こってしまったし、どういう事故で、どの車がぶつかったかがわかれば、ほかにたいした問題があ、るとも思えません。きちんと保険に入ることと、事故の証明で保険の支払いがなされるようにすべきでしょう。
宿はとても綺麗で、見晴らしも良く、快適です。ジジ・ババのコンビは、車の運転の仕方や、地図の読み方で、もう何十年も争いながら、車を走らせてきました。FIATの小型SUVみたいな車をHERTZで借りたのですが、ハンドルをちょっと早く切ると、足がグニャリとなってロールします。それでも、まずまずの車で、マニュアルミッション、左ハンドル、右側通行の世界を楽しもうと思います。(写真・インスブルックの宿から)


午前中にインスブルックの裏山へロープウェイで上り、ハルフェレカール(2334㍍)まで少し歩き、チロルの山々の展望を楽しみました。眼下にはイン川がうねり、インスブルックの街が見えます。ロープウェイを乗り継いでの展望台ですから、とても綺麗です。ただ、インスブルックの街が、大きな盆地になっているので、その先の先に連なるアルプスは、シャモニーのでロープウェイで登っての展望とは異なります。
午後は山を下り、旧市街を見物しました。市の塔、とかいう時計台に上りました。150段近いらせん階段を上り、しがいを眺めるだけですが、一人3ユーロ50です。何のサービスも無いので、丸儲けでしょう。それでも黄金の小屋根とか装飾だらけの建物を上から眺められて、また別のおもしろさはありました。ところで、この塔に上る前までかぶっていた帽子を無くしました。オーストリアは帽子と縁のの薄いところです。前回来たときにも、初日にホテルの食堂に置き忘れです。日本なら必ず出てくる使い古しの帽子ですが、不思議にオーストリアでは出てきません。
ああ、そういえば中国人のマナーの悪さは、ギリシャやスイスでも感じましたが、インスブルックでも同じです。たちが悪いというべきでしょう。ここでは街頭にテントを張りテーブルやいすを並べて店が営業しています。そこへ大勢で座り込み、チャイナタウンを作ります。2人か3人がビールか何かを注文し、ほかの人は近くのスーパーで買ってきたビールをラッパ飲みです。これじゃ店はかないません。注意されるとビールを一人が注文し、大笑いしながら10人くらいがまた、ラッパのみです。中国人と韓国人のマナーの悪さは、むかしの農協の比ではありません。

イン川は蕩々と流れていました。雪解け水で白っぽく濁っています。旧市街の名所はおおよそ巡り、イン川の対岸に並ぶ色とりどりの家を写真に撮り、つなぎ合わせてみました。
とても暑い日です。ヨーロッパも異常気象ではないかと思うほどです。体温ほどあると思いました。車はかなり馴染んで来ましたが、停車したときにエンジンが切れ、クラッチを踏み込むと再スタートですが、上り坂などではいささか使いにくいです。それでも元気に走ってくれるので助かります。明日は氷河を見に行きます。

2014/06/9

氷河のスキー場を見に行きました。アルプスには氷河がスキーに適するところが沢山あります。しかし、今や氷河は山の上部などに限られているため、、手軽にスキーと言うには、ちょっとはばかられます。今日はオーストリア最大の氷河があると聞いたので、シュトゥバクタールの谷のどん詰まりまで車で行き、後はロープウェイにお任せということになるのです。インスブルックから、182号線で南に向かい、20キロに満たないあたりで、183号線に入ります。
ちょっと分かりにくいですが、高速道路の複雑なインターチェンジを考えると景色を見ながら走れるだけ、そう遠くなければ一般路の方が好きです。スキー場は去年行ったマッターホルンのイタリア側と同じようで、初夏のスキー、残雪スキーを楽しむところでしょう。雪はザクザクで、快適なスキーとは行きませんが、雪の感触は悪くはありません。
インスブルックに戻ってきて、パッチャ-コーフェルへのロープウェーで上に上りました。観光地なのですが車で行く人は、地元がらみで様子の分かっている人が多いようで、ほとんど案内はありません

。さんざん苦労したあげく、ようやくたどり着きました。 1964、1976の数字とオリンピック・マークがついていました。そういえば懐かしい、遙か昔のオリンピックを思い出しました。ジジの先輩が、まだ外国へ出かけるのが大変な時代に、オリンピック特派員という晴れがましい肩書きで、満面の笑みででかけていっったのをが昨日のようです。写真=上・氷河の大スキー場、右・インスブルック南の山から西のチロル山塊を見る=

(オーストリア~イタリア)2014/06/10

5000年前の男の凍結したミイラが見つかったのは、この山域です。スキーリゾートで賑わいますが、今(初夏)のシーズンは多くのホテルが休んでいます。夏の真っ盛りには、ハイカー相手の宿が営業するそうです。この谷の奥から左にかけての山域は、スノーマンとも5000年前の男とも言われる男性のミイラが見つかったところです。今は6月ですが、7月の末になると、ハイカーも歩けるようになります。今日の写真の状況だとハイカーが稜線を歩くのはムリです。
5000年前の男については、明日、博物館へ行きます。今日はインスブルックから171号線を西へ走り、186号線を捕まえて、深い谷へ向かいました。スキーリゾートは閑散としていて、一般の車で行ける一番奥に山岳ガイドが、ザイルを肩に、山を指さしている銅像がありましたが、ハイカーや登山者の姿は無く、パイオニアは立場が無いでしょう。

少し戻ってイタリアへの峠に向かいます。オーストリア側では、有料道路になっているようで、ゲートがあり14ユーロ取られました。ここからは雪の回廊です。立山も雪の壁が見事ですが、一般車は走れません。バスで上りホテル前から200~300㍍ほど歩けるようになっています。草津も少しの間だけ、急斜面の吹きだまりを切り開く回廊がありますが、ほんの僅かな時期でおしまいです。ここは長々と続きます。 立山・弥陀ヶ原よりもかなり長い雪の回廊です。峠を境にオーストリアの北斜面は、ずっと雪です。おそらく部分的には氷河でしょう。Timmelsjoch峠(2504㍍)で様相は一変します。雪の壁は姿を消し、遠くの雪と氷をまとった岸壁が綺麗です。
オーストリアへやってきて8日たちました。今日はイタリアのボルザーノに来ています。ウィーンでちょっと雨模様の日がありましたが、後は快晴。薄雲のかかることもl珍しい、好天続きです。今日はチロルの山々の風景を満喫です。明日はスノーマンの所持品などが展示されている博物館へ行き、午後からはコルチナ方面と言うより、ドロミテの山群のどこかへ行き、2,3日滞在しようかと思っています。
アイスマンは1991年9月19日、ニュールンベルグからやってきたジモン夫妻によって偶然発見されました。晩秋のトレッキングで登山道から少し離れていた踏み跡をたどっていた二人は、半ば雪に埋もれた遺体を発見したのです。まさか5300年も前の人とは思いもしなかった二人ですが、地元警察へことの次第を連絡したのです。上右の写真は発見現場近くを移動する羊飼いです。
当然の事ながら、誰一人としてこれが大発見だとは考えもしませんでした。発見地点はオーストリア国境からイタリア側へ僅か100㍍(2,56㍍入ったところでした。原因不明、どこの誰とも分からない遺体としてイタリアに引き取られました。もし、発見時に5300年前の男、と判明していたら,一悶着あったかも知れませんが、所轄イタリアで,今はボルツアー県立考古学博物館に保管・展示されています。右下の写真は、のぞき窓の奥に横たわる”アイスマン”です。
この男性は“エッツイ”と呼ばれました。発見された場所が“エッツタール”なので、マスコミが名付けてしまったのですが、今はアイスマンが一般的です。博物館ではミイラ化した遺体を保護するために、摂氏ー6、湿度99%の冷蔵庫の展示室に横たわっています。ただ、ミイラに必要な湿気を吸収させるため、2ヶ月に1度冷蔵室から出すそうです。目の色は茶、血液はO型、身長・160㌢、体重50㌔、年齢は47歳前後と科学者チームは報告しています。
所持品の斧は銅で、精度は99,7%、熊の毛皮で作った靴、しっかりと織られたコートがちかくにで見つかっていました。銅の生成技術などは高度で、この一帯の文化程度がかなり高かったことが分かります。アイスマンは左肩に矢を受けた傷、顔面には凶器で殴られた傷があり、これが命取りになったと言うのが多くの科学者の意見ですが、一部にはアクシデントとする説もあり、死因は特定されていません。
いずれにしても新石器時代の末、青銅器時代に入ろうという時代に生きた男のミイラ化した遺体です。博物館でのぞき窓から見る遺体は、思いのほかしっかりしていて,復元作業もキチンと出来たようです。所持品も展示されていましたが、状態は良いようにみえました。





2014年6月11日

ボルザーノの街は昔、チロル王国の商業都市だったそうです。川を隔てて新市街と旧市街に分かれていますが、旧市街はとても風情があり、良い街です。古いビルの間に路地が続き、アーケードのあるメインストリートにはシックな商店が続きます。ブランド店がキラキラと並ぶ信仰商店街とは違うし、購買力があるからと、ブランド店が進出している多くの街とは一味違います。真前は世界的に売れていなくても、なかなか良いものだと分かる、昔ながらの商売のようです。

アイスマンはこの街のがっしりした建物に保管・展示されています。館内は撮影禁止なので、残念ながら写真はありませんが、ミイラは化学処理され、冷凍庫でしょう、その中に保管されています。一人か二人がのぞき窓から見ることになります。早朝だったし、発見されてから10年以上も経つので、一時のように見学者が多いわけでは無いようです。当たり前ですが、本や写真で見たのと同じで、所持品なども展示されていました。
オーストリア側から上ったハイカーが、偶然見つけ、オーストリアのインスブルック大学などが中心になって研究されましたが、ミイラや所持品は、アイスマンが国境のイタリア側で発見されたことから、イタリアで保管することになったのです。観光資源としても凄いものですが、第二次大戦前までは、チロル王国の領分で、首都はマラーノ(南チロル・イタリア)にあったのですから、イタリアに平和裏に保管場所が決まったのは良いことでした。それにしてもインスブルック周辺にアイスマンのDNAを引き継ぐ人が、現在17人ほどいるというと研究発表されています。

さて、チロルのどこかへ泊まって、山を眺めながら3日ほど滞在しようと思っていたのですが、スキーシーズンと夏のハイキングシーズンの端境期で、多くの宿泊施設は休んでいます。スキー客で賑わう村や町も、ひっそりとしています。綺麗なゴーストタウンと言ったところです。これじゃ何となく面白くないので、どうせ奈良とコルチナダンペッツォまで走りました。大きなトゥ下を二つ越えました。北イタリアは南北への道路は広くしっかりしていますが、東西は南に向かったチロルやドロミテからアドリア海へとながらル川に阻まれ、うねった峠道が細々と続くのです。結構な上り下りで、カーブの連続でした。
コルチナダンペッツォでは数年前に泊まった宿に入りました。3日ほど滞在します。

2014/06/12

コルチナに宿を取って近くを見て回ろうということです。ところが以前来たときにも、精力的に廻ったので、よく地図を見ると、ここも、あそこも、行ったことがある、となります。どうせならドロミテ山群を360度展望できるラガッツォイ山(2778㍍)まで行こうと、ファルツァーレーゴ峠(2105㍍)まで車で行き、そこからロープウェイでラガツォイ小屋へ上り、稜線や雪渓を歩いて山頂まで行きました。天候はまずまずです。快晴とまでは行きませんが、展望は素晴らしく、ドロミテの山々がよく見えました。
この山は第一次世界大戦で、オーストリアとイタリアが戦ったところです。小屋の近くには、岩をくり抜いたトーチカがあり、峠を見下ろす機関銃座や峠を飛行する航空機を狙う機関銃がトンネルの中に据え付けられています。以前、来たときには飛行機を狙う機関銃に触れることもできたのですが、今は手前に金網が張られています。
オーストリア山岳兵のパトロールルートが稜線に沿って続いています。今はそれがトレッキングルートになっていますが、山岳兵は凄いところを鉄砲や装備を担いで歩いたものだと感心します。イタリアも山岳兵の部隊があって、ずっと昔の山岳部時代に覚えた歌がありま

♪「山の大尉が傷ついた。部下の山岳兵たちに、もう一度ここで会いたいと、息絶え絶えにことづけた」。
そして、山岳兵は「靴が無いので歩けない」と嘆きます。大尉はもう命が無いのを承知で「体を切り分け、恋人、イタリア皇帝、母親、山々に捧げてくれ」と部下に命じます。第一次大戦のアルプスの戦いは、土産物屋にまで沢山の本が並ぶほど、凄かったようです。

コルチナも端境期で休みのホテルや商店が多かったのですが、イタリア料理屋は何軒も開いていて、なかなか旨いものを食わせます。イタリアはどこでもあまり食い物に外れることが無いのが良いところです。街のスーパーマーケットは開いていて、食料、衣料品、本、文房具、電気機器、電話、日曜大工…。それこそ何でも売っていました。
明日はさて、天気予報は良くないのですが、これまでずっと天気には恵まれてきました。良かったら、チンネが逆さに移る湖まで、一走りするつもりです。
2014/06/13

このところ強行軍が続いたので、今日は少しのんびりです。コルチナから北へ、山を上っていくとミスリーナ湖に出会います。湖畔にしゃれたホテルがあり、湖面にクライマーがあこがれるチンネの岩峰が逆さになって映り込みますj。この前来たときには見事に逆さチンネが見え、ついでにチンネの周囲を歩いたりしたのですが、もう一度岩峰の根元まで走って行くことも無いと思って、お茶を飲んで引き上げてきました。
チンネの方面がどんよりしていたのに対し、コルチナの南は晴れていて、岩山が綺麗に連なっているのがとても良い雰囲気です。
「どこを見てもドロミテの岩山が綺麗だな」
「ドロミテにいるのだから当たり前でしょう」
こう言う話では、それ以上、弾みようもありません。景色が圧倒的なので、余計な口をきくより眺めたり、写真をとったりのほうがいいのです。スキー場はあちこちにあり、リフトが沢山架かっています。ロープウェイもありますが、冬しか営業しないようです。同じ観光客でもスキー客は圧倒的に多いのでしょう。

コルチナダンペッツォの谷に住む人は、6000人ほどだと聞きますが、シーズンになるとその数倍以上のスキー客がやって来るのです。オリンピックが2度開かれていて、スキーの知名度も高く、高級品を売る店もたくさんあります。ジジ、ババのスキーテクニックでは、見たところコルチナのスキー場は敷居が高そうです。
明日はスロベニア方面へ向かいます。ヴェネチアを目指して南下。途中から東に折れて、スロベニア国境へと向かうつもりです。日本を出る前にはウィーンから南下し、スロベニア南部から西部を北上、アイスマンを見てからインスブルック、ザルツブルグの予定でしたが、オーストリアについてみると天気の様子が始めにインスブルックへ向かった方が良いようだったので、急遽変更したのです。
最も宿の予約も何も無いのですから、どこを走ろうが本質的に変わりはありません。気が向くまま、明日は南下して、東方へ向かい、その後は時刻次第で泊まるところを決めることになります。

スロベニアにサヨナラして、オーストリアへやってきました。オーストリアからチロル地方を走り、ドロミテの山群を巡り、スロベニアへ山道を縫うようにして入ったのですが、今日はブレッドからA1へ出て、高速道路を走ってきました。もちろん、途中で降り(ナンバー60)ローカルロードを走り続けて、ハルシュタット湖のほとりに出ました。綺麗な湖なので駐車場を探し、駐めてみるとすぐ側からケーブルカーが斜面を登っています。早合点なのか、調べが足りないのか、それとも元々知らないのか、ここがハルシュタット湖を上から見る場所だと早合点しました。
ケーブルカーの料金がずいぶんと高いのです。券を見てばばが言いました。
「これは塩採取場の鉱山を見るツアーになっているよ。山の上から湖水を眺めるところじゃないわ」
聞いてなかったけど、チケットは買ってしまったし、払い戻しして貰うよりも、深い穴の底で塩を切り出す様子が分かれば、それも良いか、でケーブルカーで上り、さらにかなり歩いて入鉱への建物に着きました。上っ張りとズボンを貸してくれます。皆がそれを着て、なんだかにわか鉱夫の群れができあがったみたいで笑えます。トンネルを案内者の先導であちこち歩き、地底の水のたまった広い場所や、さらに深く下っていくために、木製の滑り台が2カ所作られていて、楽しませてくれます。

最後はトロッコに乗って事務所の少し下に戻るのですが、狭い狭いトンネルをトロッコは勢いよく走ります。ちょっと手を挙げれば天井に触れるし、横に手を出せば、側面にぶつかります。囲いも何もない、ただ木製の角材の上に座っているだけです。日本ではとうてい許可されないでしょう。落ちれば巻き込まれてほぼ100%あ派死ぬでしょう。走でなくても大けがは免れません。スリルのある仕上げで、輝く地上に出ました。ほどほどに面白かったけれど、鉱山の様子は日本のあちこちで、坑道内に入って居見学してきたので、さして新しいことはありません。観光なら3時間はたっぷりかかる塩鉱山見物より、山々の美しさや、湖水などを見るのも良いかなと思います。
ハルシュタットから4㌔ほど離れた村にキッチン付きのアパートメントを3日間借りました。明日、晴れれば氷河の名残のある山の上まで、ロープウェイに3度乗って、かなり歩くと行けるようです。展望がきけばそれで良いので、あまり歩く気にはなりません。明日の出たとこ勝負と言うことになります。

オーストリアに入って、村や町、山や川の呼び名も、ドイツ語圏らしく、ごつく、長く、慣れるまでは読みにくいものが多くなりました。ダッハシュタイン山塊を見るのに、オーバートラウンの村から4㌔ほど山へと走り、そこからロープウェイを乗り継いで、2109㍍のクリッペンシュタイン展望台の少し下に着きます。目の前に氷河をまとった大岩壁を巡らせた山塊が展開します。一昔前までは、巨大な氷河だったと思える緩い岩壁が、大きく広がっています。標高こそ日本の北アルプスの山々とそう代わらず、ホーヘル・ダッヘスタインの3004㍍が最高です。

しかし、山のスケールや岩壁の巨大さは、桁違いです。昔だったらどういう風にルートをとったら、山頂に立てるか。などとあれこれ通れそうなところを目で追ったのですが、今は目で追ってみることはしますが、とうてい「行ってみよう」などとは思いません。ちょっと歩けば疲れるのですから、軽いトレッキングがせいぜいとなってしまいました。ま、それでもこの年で、軽いとはいえトレッキングができることを幸せと思わなければなりません。

ロープウェイで山の上に上がると、360度の展望台のほかにも,20分ほど歩けば「ファイブ・フィンガーズ」と名付けられた、岸壁に張り出した展望テラスがあります。ここは無料で、誰でも張り出した金網と手すりのついたテラスへ出られます。張り出しが5つあることからファイブ・フィンガーズになったようです。高所恐怖症の人は、寄りつきもできないでしょう。しかも張り出したテラスは、足下は網状の鋼材パネルで、スケスケです。何百㍍も下まで、何もありません。係員もいないし、転んだら、真っ逆さまというところまで斜面を歩いて行き、写真を撮っている人もいます。
日本だったらマスコミが大騒ぎです。危険な観光地として、作った自治体は袋だたきでしょう。それでいて、マスコミや知識人と称する無知な人たちは、何かというと「欧米では」と例に出します。

欧米では老人が渡りきれる横断歩道信号などありません。余計なことになりましたが、危ないと言えば危ないところだらけですが、自己責任できちんと処理すれば良いのです。日本では個人情報を馬鹿のように守ろうとしますが、すべては筒抜け。過保護と袋だたきが好きなマスコミのおかげで、おぼれる子供が一人でも出るとると学校のプールは閉鎖です。
山を眺めながら、すっかり軟弱になってしまった日本と日本人のことを思ったところです。

旅に来て初めての雨です。ウィーンに着いたのが3日でインスブルック、北イタリア、スロベニアなどを走り、再びオーストリアへ入り、オーバートラウン村に滞在しています。悪くても曇り、多くは太陽が燦々と照る心地良い春の終わり、夏の始まりの旅です。天候には恵まれているというしかありません。レンタカーでの移動なので、気の向くままにコースを変えられるのも魅力です。宿も、行き当たりばったりだったり、前日か2日くらい前に、インターネットで探して予約するなど、最近は便利になりました。

地図の方もパソコンで調べると、ルートがきちんと出てきます。緯度、経度を打ち込むとか、住所を入れるなどで、その付近の地図や航空写真まで見られるのですから、一昔前に比べると、とんでもない時代になりました。
久々の雨なので、昼過ぎまで寝てました。午後になって雨も上がったので、ハルスタットへ行きました。南から町へ入るには長いトンネルを通りますが、そのトンネルの湖水側が昔からの町なのです。トンネルを出たところが、町なのかと思ってしまいますが、そうではありません。車が多くなり、昔の道では観光客の受け入れなどとうていムリなので、旧道は町の人が使い、観光客はトンネルをくぐって町外れに出るという仕組みになっています。
古い岩塩の産地なので、町は湖水と岩壁の間に何とかへばりついている感じです。積み重なるように急斜面に家が建っています。土産物屋や飲食店が湖岸に続き、繁盛しています。町の売りは塩の鉱山ですが、町の中では教会の納骨堂が珍しく、こ

の町で亡くなった人の頭蓋骨1200が安置されています。最も新しいものは1995年に納められた女性の頭蓋骨で、彼女は1983年に亡くなり、土葬された後に掘り出され、洗骨し、太陽にさらした後に納骨されたのだそうです。今は火葬で土葬は希だと言うことですが、本人の意志がはっきりしていれば、土葬の後に納骨堂に収まることもできるそうです。洗骨の風習は沖縄にも残っていますが、頭蓋骨や大きな骨を10年から20年後に掘り出し、納骨堂に収める風習はここだけかも知れません。
墓地にする土地が狭いことから考え出された伝統で、前の主が納骨堂へ移ると、次の主が入るという仕掛けです。同じ一族がこうして墓を受け継ぎ、共有しているようです。写真を撮ることもできます。フラッシュをたいている人もいました。故人たちは生きた証を人々に示すことを、喜んでいるのだろうと思いました。
この町はとても綺麗です。湖岸から崖にへばりつくように建つ家々や教会の尖塔、背後の岩山など、晴れても良し、雨上がりも良しです。明日は山の中を回り道しながら、ザルツブルグへと向かうつもりです。途中にはモーツアルトの母親が生まれた村もあるようです。ザルツブルグでは、あれこれ町中のの見物です。

オーバートラウンからハルスタッドを経て、ザルツブルグへの田舎道を走りました。問い中には綺麗な湖があり、牧歌的な場所も多いと聞いたからです。普通はザルツブルグを0基地として、観光ツアーがあるようですが、ジジ・ババは気ままな車の旅なので、通る道はやはり勝手気ままです。
ザンクト・ヴォルフガングには立派な教会があり、巡礼の地として中世から賑わっていたようです。今も教会を中心に小さな村には似つかわしくないほどのホテルや土産物屋が並んでいます。登山電車もありますが、乗らず に湖の反対側にある、モーツアルトの母親が生まれたと言う村へ行きました。モーツアルトともなると、母親の誕生の地まで有名になるのです。モーツアルト本人はこの村で生活したことはないのです。それでも役所の前には、バイオリンを弾く、音楽家の像がありました。
町外れに山の上へのロープウェイがあると分かったので、乗りに行きました。駐車場には料金を支払うポストがなく、止まっている車は時計を模した板をフロントに置いています。ロープウェイのチケット売り場の売店で聞いたら、ロープウェイに乗る人は、3時間まで無料だということで、時計を書いた紙をくれました。乗る時間が書かれていルので、その間は違反ではないのです。どうやら地元の人の駐車場で、観光客には3時間に限り解放しているようでした。

かわいらしい4人乗りのロープウェイです。まさにクラッシックな乗り物ですが、速度が遅いことに加えて、距離も長いので約18分ほどは乗ります。この手の乗り物では、珍しく長い時間がかかります。1525㍍のツヴェルファーホルン直下まで行きます。ロープウェイ駅とその近くには、展望レストランもあります。曇りでしたが、展望はきき、なかなか良い眺めでした。弁当を広げ、食べ終わってまもなく、雲行きが怪しくなり、戻ろうと乗り場へ向かう途中で、雨が来ました。うまい具合にすぐ乗れましたが、ゴンドラが動き、空中へ出たら、真っ白な霧の中。標高は低いとはいえアルプスの一部は、牧歌的でも天候は急変するようです。
カー・ナビゲーションはとっくに壊れてしまったので、ザルツブルグの宿へは、地図だよりです。それでも全く迷わずに、予約した宿に着きました。一階はホテルの入り口とイタリア料理屋です。部屋は広く、綺麗ですが、シャワーやトイレが遠く感じるほどです。夕飯はイタリア料理屋へ行きましたが、その量の多さにびっくりです。とても食い切れません。ザルツブルグには4日間泊まりますが、ここのイタリア料理屋で食べるときは、シェア市内と残すばかりです。明日はすぐ側の城やモーツアルトの生家などを見ようかと思っています。その後にはヘルブルン宮殿へも行こうかと思っています。
(6月26,27日)

ザルツブルグは教会だらけです。お城のすぐ横の山上には、修道院のおおきな教会がありますが、旧市街は教会ではなくても、教会の塔のようなクワイのような、下が丸く膨らみ、上が尖った屋根の建物がたくさんあります。役所だったり、博物館だったり、いろいろですが、教会ももっとたくさんあります。小さな街なのにどうしてこんなに教会があるのか、実のところ理解に苦しむと行ったところです。奈良や京都も寺院は多いですが、ザルツブルグほど密宗はしていません。教会の密集度では、おそらくここが世界一でしょう。

人々はどの教会へ、なの委をお願いしたり、何を懺悔するのでしょう。寄進にしても、えり好みをせざるを得ません。昔大司教が権勢を振るったようですが、宗教の司祭が大権力を握り、街を支配したにしても、教会の区分けをどうしたのか、気になるところです。その教会の広場で、アラブの製品を売る市が立っていました。ベドウィンの天とも張られていたのですが、キリスト教の大教会の広場に、イスラムの民が間借りして商いをするなど、これは平和共存で誠に結構なことだと思いましたよ。

小さい街ですが歩き回ると結構疲れます。修道院へは長い階段を上がったので、かなりの消耗です。しかし山は綺麗に見えました。モーツアルトの生まれ育った家も、いまはモーツアルト資料館になっているので、8.5ユーロのシニア割引で入りました。ピアノはとんでもなく小さく、現在の豪勢なピアノが、当たり前のように思っていたのですが、名曲が誕生したのは、昔の学校のオルガン程度、昔の学校の机を少し大きくした程度のものでした。今はすべて、ものや、格好から入っていきますが、モーツアルトの時代はものや格好は、後からできてきたようです。
昨日(6月26日)は山登りをして、一杯飲んだので、そのまま寝てsんひまいました。今日はこれでも2日分のつもりです。相変わらず天気は良く、日差しは強いです。観光客は、日増しにおかずを増しているようです。そろそろ帰国の準備ですか…。

遠くの山には残雪が光りますが、日中の町中は強い日差しでたまらない暑さです。インターネットで見ると、東京は22度とかその付近で、結構涼しい、と言うより寒いくらいでしょう。ザルツブルグからよく見える山、ウンタースベルグ(1853㍍)は、ロープウェイで1776㍍まで上れます。下の駅は456㍍ですから、一気に上る感じです。多くの観光客は、ロープウェイの駅から少し登ったガイアーエック(1805㍍)で記念写真を撮り、周囲を見渡してロープウェイで山を下ります。

ウンタースベルグ山へは40分ほどかかります。ゆっくり歩いて展望を楽しみながらですが、急な上りです。ガイドブックなどには、この山の標高が書かれていません。あれこれ探して1853㍍を探し出しました。どっちでも良いことですが、山頂からはザルツブルグ空港がよく見えます。街はちょっと右のロープウェイ山頂駅にかかって、全体が見えるわけではありません。その点で360度の展望とはいえ、街を見るならロープウェイを降りてすぐの山からの方が、はっきりします。
モーツアルトは人気ですが、観光客の多くは生家の前に群がり、記念写真を撮りまくって帰って行きます。年寄りは8.5ユーロ、大人は10ユーロの入館料ですが、入る人は意外にも少ないのです。ピアノやバイオリンなども置かれていて、ちょっとのぞいて

モーツアルトはこんな楽器で曲を作ったんだ、などと思うのも悪くはありません。川にはモーツアルト橋が架かっています。自転車と人だけが通れます。しかし、鉄橋のような作りで、情緒はありません。モーツアルトも出入りした、と言うケーキ屋さんにも寄りました。昨日は一階でしたが、今日は2階のベランダに陣取って、ザルツブルグのオバサン

合唱団が、アコーディオンに合わせて歌うのを聞きました。
近くの広場へ行くと、正装した御者が、馬車を連れねています。馬車は7,8台が整列し、一番前の馬車は白く塗ってあります。よく見ると結婚式のパレードのようです。近づくとかなり丸っこく、結構なお年と見受けられる花嫁さんと、ツルッ禿げで、怖そうな花婿さんが乗ってます。馬車列の終わりの方には、黒ずくめで怖そうな男たちの馬車が続きます。映画のシーンのようではありましたが、太陽が照りつけ、暑かったので、その分、雰囲気はマイナスでした。広場に並び、観光客を待っている馬車のかなりが、結婚式パレードにチャーターされたらしく、隊列が出て行くと、馬車はいなくなってしまいました。

修道院は数々ありますが、メルクの修道院はその大きさに魂消ます。おしりではないのに、小高い丘の上にあり、城壁のように建物の壁を連ね、まるで戦闘ようの城みたいです。フランスのルイ・16世に嫁入りするための旅の途中で、この修道院に泊まったと言うことです。修道院と言うより壮大な館といった方が良いかもしれません。入るには10ユーロの入場券を買います。ドナウばわに沿った場所ではあっても、ウィーンから80㌔ほど離れているので、あまり観光客はいないだろうと思っていました。

その予測通り、小さな街は綺麗な商店街などが整備されていましたが、人通りは少なく、活気はありません。修道院を2000年過ぎてから、大々的に整備し、今もそれは続いていますが、町中も整えられ続けているのです。それにしては人影が…。修道院へ街から息を切らせ、休み休み登っていくと、街では見かけなかった観光客が、集団を作って移動しています。修道院へも続々と入っていきます。
町の整備計画が杜撰というのか、摩hc糸修道院観光を結びつけなかったというのか、待ちとは反対側の修道院横に大きな駐車場が作られ、バスの団体は町とは関係なく、修道院だけを観て帰ってしまいます。商店街なども整備されているのですが、この世お薄では古い町が息を吹き返すことはなさそうです。珍しく日本人のグループにも出会いました。今回の旅では、日本人に出会うことが少なく、むやみと多かったのは中国人です。それに韓国人もいました。

修道院の中はキンキラキンです。様々な装飾品は、金銀宝石がちりばめられて、まさに、王侯貴族の宝物館です。キリスト教の司祭が大金持ちで、豪勢な生活をしていることは周知の事実ですが、この修道院も例に漏れず、金銀宝石だらけです。礼拝堂も豪華・豪華で、キンキラキンの世界です。貧しい庶民がこう言うところで礼拝し、救われるのでしょうか。キリストのかわいそうな姿を絵にしたり、十字架に貼り付けたりしていますが、司祭の服装は、とんでもなく豪華で、金糸・銀糸でボテボテに厚くなっています(写真右上)。日光・東照宮の坊主の駐車所は、ちょっと植木で隠されていますが、メルセデスの高級車がゾロリです。やはり坊主や司祭は、丸儲けなのでしょう。
メルクへは何となく立ち寄ったのです。もちろん泊まることになったのですが、ザルツブルグからウィーンへ向かう途中におおきな修道院があると分かったので、急遽、ハンドルを切ったわけです。A1を走っていたのですが、St.Valentinと言うところで降り、ローカルの1号線を東に向かい、Wallseeという

村でドナウの支流を渡りますが、大きな堤防があり、車は交互通行になっていました。とても主要道とはいえない細い道で、ローカルな雰囲気は十分ですが、道選びが大変でした。
水車がつい最近まで使われていた場所や、ハイキングの人が沢山いる峡谷の入り口などを経由し、ドナウ本流を渡って、メルク着です。駐車場の少ない街で、泊まったホテルは偶然にも「ホテル駐車場」と書かれた看板が目につき、入り込んで駐めましたが、3階からの通路を歩き、1階のフロントで手続きをする奇妙なチェックインでした。

ウィーン空港へ到着しました。メルクからは雨の高速道路を走ってきました。まともな、といったら変ですが、一ヶ月の旅でそれこそ、まともな雨に遭ったのは今日が初めてです。予定ではウィーンからグラーツを経由して南下。スロベニアから北イタリア、チロル地方を巡り、インスブルックからザルツブルグのはずだったのですが、現地の天気予報を見たら、西のl方が晴れていて、ウィーンの南は悪天候のようだったので、ウィーン滞在の後、突如、インスブルックへと走ったのです。結果的にはこれが大当たりで、奇跡的とでも言いますか、ずっと晴れ。曇りの日もいくらかはあったのですが、山を見ようと思ったり、山に登っているときには、降られることもなく、大満足です。(写真左は印象的だったオーストリア・イタリア国境の峠)
旅の途中には、ル・マン24時間やW杯サッカーがあり、昔なら間違いなくル・マンを取材していたでしょうが、モータースポーツの取材をやめて久しく、60年代の終わりから、2000年代の初めまで通い続けたル・マンにもサヨナラしたわけです。WRCのラリーに、日本車が出ていれば、時々行ったでしょうが、日本車の撤退でこちらの興味も薄れてしまいました。ラリーやパリダカなどを取材したおかげで、車を運転することには問題がなく、今度も2600㌔ほど走りました。高速道路はせいぜい800㌔ほど。後はローカルロードですから、のんびりと楽しい旅でした。

帰国したらまた、国内の旅をするつもりです。ここ10年ほどは、年に一月ほど、ヨーロッパのドライブ旅行をしています。昨年はクロアチアでした。今年のスロベニアと対で考えたのですが、ユーゴ時代は一つの国でも、スロベニアはクロアチアとは、ごく一部を除き、全く異なる国だと言うことが分かりました。
今日の高速道路で、一台の車が大転倒しているのを見ました。事故処理はほとんど終わっていましたが、中央分離帯を兼ねた土手に、引っ繰り返ってぼろぼろになった車がありました。上下線が土手で段違いになっていて、低い方の路線を走っていた車が引っ繰り返ったので、土手がかなりえぐれたり、部品が飛んでいたりしましたが、もし反対だったら、反対車線に飛び込んで悲惨なことになったでしょう。(写真右はドナウ川を行く石油運搬船)
地方の高速道路の乗り口と降り口が近いところでは、大きく手を広げた絵を描いた看板があり「STOP]と書かれています。日本でも高速道路へ降り口から入り込む逆走事故が増えていますが、こちらでも同じような事故があるようです。これからはレンタカーで旅行する人も増えるでしょうが、ヨーロッパは右側通行なので、日本人ドライバーは間違いやすいと思います。特に左折で、反対車線に入り込むケースが多いと聞きました。幸いそうしたこともなく何十年もヨーロッパで運転しては日本に戻る繰り返しをやっていますが、心しないといけません。旅にまつわる写真はたくさんありますが、いずれ気が向いたら追加するか、別の項目で掲載します。