

江島。頂上には清盛の建てた鳥居がある
地上に降りた伊邪那岐、伊邪那美は若い男女です。神代にエロ・サイトや”すっと惚け”の違法ポルノ商売などはありません。若い神々は純粋に成長するのです。語り合いも、ある意味であからさま、それでいて新鮮。
「古事記に書いていいの?誰でも読むんだよ」と、語りかけたとしても、こう答えるでしょう。
「それがどうした!文句あっか!」
まあ、待て待て。ここは「ワシのドアを開け!」のお楽しみとしておきましょう。オノコロ島は淡路島の絵島と言う説がある。おのころ島神社、沼島などもそう言われている。だが、別格は「伊弉諾神社」。こちらは立派な神社で、源義経と静夫婦の墓がある。義経記では弁慶が勧進帳をカラ読みするなど、苦難の末に平泉の藤原一族のもとにたどり着き、保護を受けていたが三代目が裏切って頼朝に通じ、戦の後に義経は自害、静御前は乳飲み子とともにやはり自害している(義経記)。墓には静との因縁が記されていたが、ここでは関係ないので触れない。
伊弉諾(イザナギ)神社は伊邪那岐命が仕事の根拠とし、仕事を終えた後に住み着いたとの伝説が有る。広々とした参道や境内は国を、子孫の神々を産み、日本の原点に大きな足跡を残した伊邪那岐命の“余生を送った地”にふさわしい。もっとも神様にとって定住地は必ずしも必要ではなかったねー。

淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神社。淡路島並にこの神社そのものが、オノコロ島とも言う
さて、本題に戻ろう。絵島を見たとき、小さな箱庭の飾りみたいな岩があった。直径20㍍くらいのものか。橋を渡って踏み跡を辿り、すぐに頂上。鳥居と小さな石造りの祠があった。最初に行ったのは2000年の始めコロで、自由に上ることも出来たが、観光客も増えて今では(2025年)橋は渡れるがすぐ前の岩=オノコロ島=は立ち入り禁止。
淡路島へ行ったのは古事記に言い伝えられている処を巡るのではなかった。ところがクルマを走らせていたら、小さいけれど”絵になる”島に出会った。陸からは橋でつながっていた。
「ちょっと寄っていくか」
このときの旅の主な目的は平家物語を読んでいる最中だったので、平清盛にちなんだ処を見ることだった。しかし、誰に頼まれた訳ではない。自分で勝手に文庫本の平家物語を読み始めたら四冊あった。面白いので嵌まり、由来の地を見たくなって旅していたのだ。伊邪那岐、伊邪那美にまつわる言い伝えとは、思わぬ“めっけもの”だった。近くのお宮などを見て、結局、付近に一泊することになったのだった。
オノlコロ神社への階段。(左)。 鳴門海峡、渦潮の中に転々と島。島誕生神話の故郷。
さて、オノコロ島へ天下った二柱の神は、男女の違いなどを語り合い、結婚の儀式と関係のあるような”天の御柱”と大きな家を建てた。そこで二柱は語り合った。それは、それ。あからさまには書きにくいわナ。古事記は“正直”で誰はばかることなく描写しているよ。そこんところを知りたい人は、すぐ上にあるワシの扉をったくことだナ。



南あわじ市のオノコロ神社。左は男女が赤/白の紐を引くことで、子作りを促す。社殿。表示。



天の浮橋は住宅地にあった(左)。葦原国のと書かれている。畑の中に源・国家?コンパクトな観光巡り。
神様はどこへでも…、は既におわかりと思う。真名井の水は「天の橋立」の北側にある元伊勢籠(この)神社の奥の院、真名井神社の霊水は,何でも三代目の宮司が天上界へ上り、霊水を授かって金の器に入れて持ち帰り、まず高天原のある九州の地へ霊水を届け、次いで現在の真名井神社の井戸を霊水としたとする言い伝えがあります。
っけいずもある宮司の先祖は”神様だった”ことになります。そうでなければ天界を行き期すことなど出来ようはずはないからです。真名井の井戸は出雲地方にもあります。自由に「ドアを開けては好きなところへ飛んでいける」神様なので、淡路に箱庭プラスのような「歩いて大八島の誕生史を巡れるとしても、目くじらを立てることはありません。ああ、余談ですが南淡路市でしたか、黎明巡りの天の浮橋は十t区外のなかにあるので、訪れた時には真新しい木柵で囲まれ、浮橋の先には、廊下の前に洗濯物が干してあるのが見える、誠に庶民的な“ニッポン黎明期”の遺跡?でした。