想い出・てんこ盛り 見る・聴く・駆ける

若き日のババ、アフリカの初チャレンジはキリマンジャロだった

1964年。日本は海外旅行が自由化され、東京オリンピックの刺激も加わり、海外旅行は人々の憧れとなった。アルプスやヒマラヤの高峰もまた”登れる世界”に加わった。旅や山登り大好きの若き日のババはこの世界へまっしぐらに突進だ。

目次

①旅の始まり 初めてのアルプス。マッターホルン登頂

マッターホルン登頂を懐かしみ 晴天の1日を遊ぶ

「こんなに晴れる日、あるのねー」

〇…この写真を見たババの友人はしみじみと言った。アイガー北壁やミュンヒ、洞窟の瀧なども近いミューレンに通い詰め、毎年のように出かけていたアルプス好きの女性。スネガ展望台はマッターホルンが「もっとも美しく見える」と言われる。標高2288㍍。雲上の展望は確かに美しく、アルプス屈指の場所であるのは確かだろう。

、東京湾に向かって「外国に行くぞー!」と大声を挙げていた青春時代のババは、山岳関係の出版社勤務、北アルプス穂高・涸沢で初めての女性の山小屋勤務。そこで奇しくも、ドイツ航空への”飛び込み談判?”が成功。アルプス行きのチャンスが生まれたのだった。穂高で遭遇した三笠の宮妃殿下とご子息の話題なども、航空会社に興味をもたせたようだった。

旅行の自由化から日も浅く、まして若い女性の”海外一人旅など”皆無の時代。ババは幸運の翼に乗って、ヨーロッパへ、アメリカへ、南米9か国へ、当時は“暗黒大陸”と言われていたアフリカへと、一人旅を繰り返したのだった。


懐かしのマッターホルン

ウインパーの登頂100周年記念メダル。
1965年ツェルマットの式典で入手
記念メダル裏面

勤務していた出版社が穂高・涸沢へヒュッテを作った。 ある夏の日。その小屋へ三笠宮妃殿下が2人のご子息とともに遊びにおいでになった。やんちゃ盛りの少年(寛仁親王)は、妃殿下の言うことも聞かず、穂高を歩くと言って聞かない。北穂往復の約束で出かけたのに奥穂のコルへと縦走。ザイテングラードを下ってくるなど、穂高に詳しい人が付添っているとはいえ、周囲を心配させる日々だった。

ババも屏風の頭付近へ行かれる時には付き添うなど、“宮様”のお守り?には小屋の人が大変な神経を遣っていた。その頃、都会の若い女性が山小屋で働いている・・・・、そんな話が週刊誌に出て、読売新聞出版局から、山小屋での話などを書いた本を出版。就航間もないルフトハンザ航空の日本支社に出向き、航空運賃の話、言ってみればスポンサーになって頂戴、とやった。

「振り返ってみると、本当についてた。読売の出版部長はいろいろと教えてくれたし、本も出させてもらった。ルフトハンザの人はそれを知ってたのよ。当時は宮様って、まだまだ雲の上でしょ。そのご子息を山でご案内した、それが私だと分かって一発で航空運賃はタダになっちゃった」


登攀成功。そして悲報

アイガー北壁を望む

〇…ツェルマット(スイス)は鋭く尖ったマッターホルンの秀麗な山容を見るトレッキング・コースや登山基地として親しまれている。日本路線開設間もない飛行機に”乗れた”のがババ、ツキのはじまりだった。しかし、一人でマッタ―ホルンへやにわにチャレンジするのはちょっと、という時、ツェルマットで日本トップクラスのクライマ渡部恒明さんに会った。槍ヶ岳・北鎌尾根で出会ったのが始まりで、以後穂高周辺で顔なじみだった。

「近くアイガー北壁を登るんだ。脚ならしにマッターホルンへ一緒に登るか」

願ってもない話に乗ったのは言うまでもない。日本女性では恐らく2人目か、3人目だろう。数人のガイドに守られて登った人に、出発前に会いに行ったところ。

「無理ね。あなた一人じゃ」

にべもなく言われていた。そんな背景を吹き払う願ってもないスーパー・クライマーの誘い。あっさりというか、確実な登攀で夢のマッターホルン登頂が果たせたのだった。

「楽しかったねー。俺、アイガーへ行くわ」

渡部さんはそういって北壁登攀に向かっていた。ババは周辺をトレッキングしたり、アルプスの山々を何処から登ろうか、などと日々を過ごしているとき、高田光政さんのアイガー北壁、日本人初登頂と、渡部さんの墜死を知ったのだった。マッターホルンに登った1週間後だった。


②容姿端麗

「君、それは容姿端麗だよ」と教師は言いました。

〇…「どういう職業に就きたいか」。 これは中学・高校の〝進路指導”で決まり事とも言えるテーマ。ババも教師に問いかけられ、挙手。指名されて元気よく答えた。

「スチュワーデス(当時の呼称)になりたいです」

外国旅行を夢見ていたババは、こう即答した。教師は言った。

「君、それは容姿端麗・学術優秀じゃないと無理だよ」

アチャー。門前払いの予告?

60余年経ってババは笑いながら言った。

「あの時、あたしは思ったよ。それなら乗る方になってやる、って」

時は巡り、ババはヨーロッパ行きの航空機の客になっていた。スチュワーデスと目が合った。

ババはビックリした。スチュワーデスも同じだった。

「アラーッ!」

あの日、スチュワーデスになりたい、と言ったのはクラスで二人だったが、その二人がそこにいた。

昭和30年代だったから、こういう発言も問題なかった。スポーツ紙の女性目当ての求人広告には、容姿端麗…、が当たり前のように書かれていた。従って、教室に笑いは広がったが、何事も無かった。


③椅子に固着

〇… オルリー空港の待合室。ババの近くの椅子に、日本人の年配男性が落ち着かない様子で椅子に腰かけていた。間もなく添乗員とおぼしい女性が、社名の入った小旗を持って小走りに人探し。ババの前へ来たとき「アー、いた」と呟き、オッサンの顔を見るなり言った。

「あー、良かった。もうすぐ飛びます。急いでついてきてください」

そう言って速足で元来た方へ向かった。オッサンは立ち上がれない。立とうとしているのは分かるが、腰を上げかけても動けない。見ると手はしっかり、がっちりひじ掛けをつかんでいる。手を補助に使うのではなく、むしろ抑え役。だから立とうとして腰を上げかけてはストンと落ちる。緊張の極だと、こういうちぐはぐな動きが出るのか。

駆け戻った添乗員に叱られても立てない。腕を引っ張られてやっと動いた。

「人はあんなことも起こるんだと初めて思った。驚いて固まっちゃう話は聞くけど、椅子をつかんだまま、立とうとしたって無理よね」


④キリマンジャロの石

キリマンジャロ異聞

〇…ヘミングウエイの名作に「キリマンジャロの雪」がある。出掛ける前に某新聞社の出版部長に云われた。

「干からびた豹の毛皮があったら、写真頼むよ」

本気か冗談かー。当時(1960-70)はアフリカをひっくるめて「暗黒大陸」と呼んでもいた。旅の話をするのにTV局で当時は有名だった女優と対談した。

赤道直下を通った話をしたら

「暑かったでしょー。焼け死なないの」
「そんなこと無いですよ」
「赤い線でも引いてあるの?」

大まじめだから、目の前で笑うわけにはいかない。

「そういうのはありません」
「そうなの」


石は石だが石(宝石)違い

〇…キリマンジャロ登山を終えて、羽田へ戻ってきた時のこと。手荷物検査は当然ある。当時はウィスキー、たばこが土産で人気があった。宝石も購入して持ち帰る人が多かった。

「石を持ってますか」と係員。ババは得意になって

「ハイ、持ってます」
「見せてください」

リュックから取り出し、ゴロン、ゴロン、ゴロン…、と得意顔でババは石を並べた。奇妙な顔をする係員は「石ですよ。持ってませんか」とたたみかけた。

「石はこれで全部です。キリマンジャロ、ケニア山、ルエンゾリの石です」
「えーつ!」

仰天。声が裏返った係員。何とか言葉を発した。

「分かりました。通ってください」


⑤ハッサンの屁

ハッサンの“一発”

〇…アラブの国のお話です。旅の途中で聴きました。

ハッサンは結婚式で新妻と並んで座っていた。宴もたけなわ。間もなく踊りも始まろうというところ。順調な進行にハッサンの気が緩んだ。

「プー」

異音!かなり大きい。

アラブ世界では人が発する音は数あれど、人前での“プーちゃん”は禁制中の禁制。静まり返る祝いの客たち。ハッサンはいたたまれず、花嫁どころではない様相で宴会の場を後にした。

インドまで流れていった、という噂もあったが、ハッサンは働きに働き、持ち前の商才で裕福な男になっていった。もういいだろう、で故郷へと帰ってきた。男ぶりも上がり、押し出しもある青年紳士。久々の故郷、過去を忘れて「もう大丈夫」と自信を深めた。

大きな商店の前。親子ずれが立ち止まり、並んだ品の物色を始めた。男の子が小声で母親に尋ねた。

「僕は今幾つになった?お母さん」
「お前の歳かえ?この前も聴いたじゃないか」
「教えてよ。幾つ?」
「しょうがない子だねー。えーと、ハッサンがおならをした年だったから。10年。10歳だよ」
「ハッサンのオナラ?覚えやすいね」

これを耳にして、ハッサンは仰天。再び故郷を後にしたのだった。

(広く知られたアラブの小話。何度も聞かされた)


⑥コーヒーの香り

〇…横尾本谷の一本橋を渡り、涸沢のカールまで一登り。いい汗をかいた登山者が北穂沢を目指すと、コーヒーの芳香が漂ってくる。

「まさかこんなところに…」

ふっと流れた香りを訝しく思いながら歩を進めると、香りは頻繁に流れてくるようになる。間もなく涸沢小屋、旧・村営小屋からのものだと分かる。汗、のどの渇き、本谷からの登り、何よりも昼食の時間でもある。香りは強まり、間違いなくコーヒーを点てる匂いだ。

「一休みしていきませんか」の声。登山者の殆どは脚を止めて、小屋の前の広場や小屋内に進む。穂高連峰初の“喫茶店”が誕生していたのだった。

「涸沢ヒュッテで仕事をするようになった時、宿泊客は、一泊コメ五合持参が山小屋の決まりだった。昼にコーヒーを飲めるようにしたら、登山者も喜ぶだろうし、小屋も儲かると考えたのよ」とババは懐かしそうに話した。何しろ1950年代の末から1960年の頃、山小屋には売店と呼べるようなものは殆どなかった。あったとしても絵葉書と缶詰が並ぶくらいだった。

「始めるまでは、小屋の人たち、どうせ駄目だろうが、やらせてみるか、位だった。それが売れるのよ。良い水が小さい瀧となって流れている。景色は良いし、最高の喫茶室、というより広場になっちゃった」

かくして北アルプスの山小屋初の“コーヒーショップ”誕生。支配人?若き日のババの片手間。

山小屋で仕事をするようになったのは、幾つもの偶然と出会いと、何よりもツキが有った。就職先を探していたババは、山岳書の出版などで当時著名だった朋文堂の社員募集を見つけた。さすがに容姿端麗は無かったが、応募資格は大卒。ババはハナからはじかれるはずだった。ところが「聞いてみなけりゃ分からない」ということで、直接出向き「人事部の責任者に合わせて下さい」と受付へ。鷹揚だったのか、どうなのか、担当者に逢えた。

当然、応募資格を確かめるのは当たり前でもある。規定からは有資格者ではない。それを言われて引っ込んだり、めげるババではなかった。

「いいか悪いか、使えるかどうかは使ってみないと分からないのではないですか」

この無理難題、無鉄砲な応募者に担当は興味を持ったのだろうか。細かい経緯は別として、終わってみれば結果オーライ。恐らくとても狭き門だったはずの障壁を突破。多くの応募者の中から選ばれた。採用はたった1名だった。その翌年に朋文堂は涸沢にヒュッテを作った、モレーンの上、カールの終わる場所だった、ババはその年の夏、小屋で過ごした。山小屋で働く、都会出身の若い女性というので、出来たばかりの女性週刊誌が、当時は珍しいカラー写真で特集を組んだ他、結構な話題になったのだった。

山小屋で働くのは男の仕事ー、そんな観念を払拭する出来事だった。


⑦山小屋

茶碗酒、お代わり御免?

ヘリでの荷揚げなど思いの外の時代。大きな荷物を背負って、歩荷さんが登ってくる。山小屋に欠かせない物資は人の背で、荷揚げされていた。

「ご苦労さん。いっぺー、引っ掛けて、下りまっしょ」

小屋主や番頭役の小屋の人は、こう声をかけてねぎらうのが通例だった。

ババも山小屋で働くようになって、歩荷さんには酒を振る舞うのが当たり前、と思いこんだ。

「どうぞ、一杯やってください」
「アリガトさんよ。ジャ、いっぺーだけ」

旨そうにちびりちびり。飲み終わったところで

「ササ、もう一杯」

グビリ、グビグビ…。

「ササ、もう一杯」

酒は勧めるもの、と思い込んでいた都会育ちのババは、こうして数杯の茶碗酒をふるまった。

「チョイト休んでから下るべー」

歩荷さんはごろりと横になって一休み。疲れと標高の高さで酔いが回ったようだった。

ほぼ、カラになっている一升瓶とゴロンと転がって寝息の歩荷さんを見て、小屋の若い衆は仰天した。

「飲ましちまったのか?酒はいっぺーが決まりだぞ」
「知らなかったよ。そんなこと。どうぞと言うと”ありがてー”とか”うめ―”とか言って喜んで飲んでたよ」

しばらく”お眠り”の後にふらりと横尾へと下って行った歩荷さんでした。ちなみに酒は自分で背負って来た”荷揚げ品”だったのは言うまでもない。


⑧上高地デビュー

新宿発23時55分・松本行き。登山ブームがやってきた1950年の終わりから1960年代にかけての登山ブーム。井上靖の小説、穂高を舞台にした「氷壁」は1956年~57年にかけての新聞連載、すぐに単行本がでて、登山ブームを巻き起こした。穂高までは行かないまでも山梨、長野方面の山を目指す、東京近辺の山好きの人は忘れもしない列車だろう。新宿発、松本行き普通列車。地下通路には大きなザックの列ができた。

ババは丹沢がホームグラウンドだったが、入社後は穂高に親しむようになる。会社が投資してヒュッテが出来たからでもある。山関係の先輩から嘆きを聞いた。

「絵葉書を北アルプスの山小屋へ置かせて貰っているんだが、料金回収をしてないんだ」

担当者が退社したのかどうか、そのあたりははっきりしないが、ババは驚いたことに「私が行ってきます」と言い放った。それも一人で…。後日、一人で世界を巡る旅に繋がる第一歩とも言える。会社の方もよくも行かせた、と思うのだが、そこはババの”押し”なのだろう。

「何処の小屋も割りと簡単に払ってくれたよ」

そうは言うけれど、この料金回収山行は意外な効果を持たらした。”ドケチ”で知られた上高地地域の小屋の主からも、キチンと回収したのだ。この噂は上高地一帯に急速に広まった。

「あの娘(こ)が〇〇ケチ親父から絵葉書の料金を回収したそうだ。奴に金を払わせるなんてスゲー娘だ」

山小屋は男の世界。そこへ乗り込んで“代金回収”をやってのけた。

「難物のケチ親父までも、払ったというじゃねーか」

これが強烈ババの上高地デビューだった。

50数年後にワシャ、ババと北穂高へ登った。涸沢小屋の主も健在だった。上高地でであった年配者は皆ババと顔なじみだった。

「アーラ、〇〇ちゃん!」

呼ばれた相手は“びくっと”したようだった。○○ちゃんは昔の呼び名。50数年後に出会ったとき、○○ちゃんは何でも国から勲章を受けた地元の名士だった。

アチャー!


⑨切ったら薪だ

〇…まだ山小屋への荷運びが、人の背、歩荷に頼っていた頃。西穂高の小屋が建て直し。上高地から槍穂高一帯の小屋関係者は、助け合いの勤労奉仕。涸沢に小屋を持つHさんも背負子を背に助っ人に顔を出した。

「Hは力があるから、こいつを上げてもらおうか」

助っ人を仕切る係から言われた。がっしりした柱が力持ちのHさんに割り当てられた。ぞれぞれが針葉樹の急斜面につけられた踏み跡ほどの小道を稜線へと向かった。樹林帯の尽きる付近が西穂の小屋。Hさんは一足遅れて着いた。

「あー、着いたか」
「ご苦労さん。ところでHさん柱は?」
「あれは、これだよ」

足元を指さした。背負子には角材が1㍍ほどの長さで納まっている。

「柱はどうした?柱だよ。背負ってもらった柱だ」
「あれか?木の間を抜けるのに邪魔だから、切って背負いやすくしてきた」
「あぇー、切った?柱を…」

小屋主は天を仰いだ。ガックリ首を落とした先には、”元柱。今じゃただの薪”が背負子に括り付けられ、大事そうにおかれていた。


⑩タダ乗り

ドイツだけでなく アフリカまでもタダ乗り

聞いてみなけりゃ、分からないー。飛び込んだのは航空会社。1961年に日本路線を開設したルフトハンザ・ドイツ航空。旅行の自由化で海外旅行は若い世代の憧れになっていた。紹介者無し、コネクション無し、強調するような実績なし。ついでに言えば金も無し。無い無いづくしを振りかざしはしないが、航空会社の受付でやにわに言った。

「広報・宣伝の責任者にお会いしたいんです」

いい時代だったというのか、ドイツ航空が鷹揚だったのか、若き日のババの無手勝流の突進は「お会いします」という受付嬢の返事で、応接室へ案内された。女性一人で旅をする、航空運賃を…。いったいこの娘は何者?宣伝・広報は訝しく思って当然だったが、山の話を聞いているうちに「これは!」となった。

「穂高・涸沢の話が出たとき、三笠の宮妃殿下がご子息(寛仁親王)らをお連れして小屋に数日お泊りになった話が出たの。山を歩かれる時にはお供した話もちょっとしたのは覚えてる」

ババは昔を振り返って話したが、「皇族のご子息を案内した、というところに注目したのかしら、話はすぐ決まっちゃった」

その後女性週刊誌の記者が取材に来たり、ツェルマットまでついてきたり「今考えると航空会社と週刊誌は私の知らない間に、宣伝記事の話が決まっていたようね」とババは言う。幾つかの要素がまとまってババを押し上げたような感じはする。マッターホルンを渡部さんと組んで登頂したのもこの時だった