
涸沢ヒュッテまえで。左から2人目がばば、3人目は三浦雄一郎さん(1962年)
ずーと昔、中学生のころ、もともとギグシャクしていた父親との関係、ちょっとしたイザコザのあと「おまえは嫌いだ!」と、
また「いつ家を出ていてもいいよ」といわれたことが忘れられず、こんな言葉を胸に長い登山や旅に出たのだよ。
最初はさびしかったけど旅はさまざまなことを教えてくれたばかりか知恵、勇気、忍耐なども。そして人の優しさも。きっと父親もじゃじゃ馬のような私を心配しての暴言だったのかもしれない。
だけど子供にとって親から嫌いだ、といわれるほど悲しいことはないよ。でもね、晩年亜砂子をとてもかわいがってくれたこと感謝!しているよ。
といろいろあって18歳のとき山小屋に飛び込んだのだよ。ちょうど女性週刊誌が発刊され、山小屋に都会の若い女性が住み込みで働くなんて、と当時の話題として格好の記事になった。
チャンス到来、出版社に協力を依頼、1960年半ば、まだ日本が海外旅行禁止が解かれて1年目だったころのこと。大学卒業のサラリーマン初任給が2万円弱のころ、ヨーロッパ往復航空料金が約40万もしたころのこと。週刊誌とバーターで飛行機のチケットが手にはいったのだ。ここから私の忙しくも充実した人生がはじまったというわけ。
ヨーロッパアルプスを堪能した後、次に選んだアフリカで、キリマンジェロ始め東アフリカの山々を登りながら、その麓に生きる人々に興味を抱き始めたのだよ。当時流行りはじめた「文化人類学」という学問の世界。学問的にはなにもわからなかった私は、京都大学の人類学者「今西錦司」・「伊谷純一郎教授」などを勝手に訪ねたばかりか、東大の先生にも、簡単な手ほどきを受けたよ。もちろんこれらの先生方の本も読み、自分なりにさまざまな見方がつかめてきた。
こんな無知で無謀で常識知らずの私に、どの先生もとても親切で、まわりの友達や出版社の人たちも驚いていたし、今になって私自身も驚いているよ。もちろん出版社の人たちからも文章の書き方などからも教えてもらいながら、様々な分野の本を読みあさったよ。
こうして先生方や学生たちに話しを聞きながら、自分の見方や感性で、歴史・民俗・文化など現地で見たまま聞いたまま感じたまま、更には出版社などの人たちとも意見を交わしながら原稿依頼を受け、書きまくったよ。
穴に入りたい部分も多々あるけど、それも勉強のうちと思い、好奇心ばかりが先立ち、当時は情報もほとんどないような国々にも出かけた。
でも結果だけ言えば簡単だけど、自動車会社や飛行機会社などとの交渉、車の荷積みからクエートやインドブラジルなどの港から受け取りや出港手続きなど、言葉もろくにわからない私が未知の世界を駆けずり回っていた。いまでは考えられないほど若くて元気だったんだね。

イグアスの滝近く、日本人会の人々と。
3回目の見知らぬ土地への無知無謀な旅の行く先は、南米大陸。スポンサーのトヨタから贈られた車は1000ccの小型車。アルゼンチンのラ・プラタ港に着いた。
一枚の地図をたよりに、後は地元の人々の話を参考に最初はブラジルの広大な大地を西へ北へと首都ブラジリアまで走った。
南米へ出発前にスペイン語を3ヶ月レッスンを受けたがブラジル語はさっぱり。それでも陽気で人なつこい同じラテン系、こっちがわかろうがわかるまいが、話かけてくる。
この時覚えたのが「相手が10の日本語の単語を相手に教えれば、こちらも同じ意味のポルトガル語を10単語覚えると、足して20語の単語がわかるのだ。そのほかの会話は体で表現。その国の歴史や文化を少しでも勉強していれば、その土地のこと、そこに住む人々の心もそれなりに理解できる。ということがわかったのだよ。
これで言葉の壁は薄くなり、現地の人々との距離も狭くなり、また時間に制限がない私の旅は、多くを学ぶこともできた。当時(1970年)は世界はまだ英語も通じない国が多かった。ましてや英語圏ではない国ばかりで、国境や郵便局のような国の機関ですら現地語のみだった。
その後、出かけた英語圏のオーストラリアですら、通じない。というより移民してきたそれぞれのお国なまりがひどく、また今のような都会はなく、メルボルンですらアメリカの西部劇に出てくるような田舎町で、その上、人種差別のひどい国で日本人が近づくだけでも嫌がられたのだ。
しかし、当時すでにトヨタ自動車の代理店が各国にあり、日本の本社から私のひとり旅が各国の代理店に通達があり、旅行の課程を伝えるテレビ番組が組まれていた。
「私は日本からひとりでトヨタのこの小さな車で大陸を走っています」
とか、新聞にも記載された。
おかげで各国ではちよっとした有名人になり、それでガードされてか、いく先々で声をかけられ、注目を浴び、これが安全を保証?とまではいかないまでも、心強い味方になった。2万キロもの間危険も怖いこともなにもなかったのか、と聞かれると、あとから思うと恐ろしいことはたくさんあったが、すべてが運良く通り抜けていた。
さまざまなことを学んだ南米大陸のドライブ旅行も終え、次に選んだのは、千一夜物語で夢を見、いまなお紛争の絶えない中近東だった。
最初は、当時まだ代々木にあった小さなモスクへイスラームを学びに通った。もちろんコーランも学んだ。
経験のごく一部だけどこうして書くことによって、人生の様々なことを思い出すね。忘れていたことも、急にそして身近に新鮮に、様々なことが浮かんでくるよ。
家の中に写真をかざって思い出すのも楽しいことだけど、こうして亜砂子に少しでも知ってもらうのも幸せだよ。
「思い出の多いほど、その人の人生は濃い」なんてテレビドラマのナレーションでいっていたよ。
ハマの大水車(イラク)。
お父さんとの出会いは1971年、ここから始まった。正確にいえば1965年、私がアルプス登山から帰国した時から始まったということになるだろう。
スポーツ新聞の記者だったころのこと。かつてはスポーツ誌の中ではトップの発行部数を誇り、記者たちも自負していた。そこで、登山、自動車、冒険などのページを担当していた中島が、私を取材に羽田空港に来てそこで初めて知った。その後は、アフリカや南米旅行について、何回か取材を受けただけだった。その間に中島も世界のドライブ旅行にルポライターとして出かけていた。
お互い噂話は聞いていても、実際にあうことはなかった。私は中東への準備も山場を迎え、車を荷積みする手続きのため当時九段にあったトヨタ本社を訪ねていた。
車を提供してもらうには、それに見合う広告媒体がなければならなかった。そこへ、偶然、お父さんが現れた。
「こっち、こっち」
と広報部の社員が呼んだ。そこで話がトントン拍子で決まり、当時石油採掘でわいている中近東道の世界をルポを新聞に連載することになった。
ひとり旅は突然二人旅となった。コーランでは女性のひとり旅も許されない世界、外国人は一応ゆるされていたが、一抹の不安があった。そこで私はOK。会社の上司もOK。
当時、クエートをはじめ中東への直行便はなくテヘランで一泊、クエートへ着いたが、空港も街ゆく人々にも女性の姿はなかった。
「一人でなくてよかった」
と思った。と同時に貧富の差が激しく、石油に枠クエート人は民話「千一夜物語」の中の王族のような生活の反面近隣からの出稼ぎ者は乞食のような姿、その貧富の差に驚いたが知るほどに彼らの豊かな精神面が見えてきた。
現在は旅することもままならないイラン・イラク、トルコを走り、アンカラまで約一ヶ月、お父さんはここアンカラより日本に帰った。私はまだ共産圏であったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、などを経由してソ連へと向かった。

ユーゴン内戦。アドリア海の港湾都市、ドブロクニクも市街戦が…。(山上の城址の展示)
東西文明の分岐点と言われるトルコのイスタンブール。当時、トンネルはおろか橋もなかった。(後に日本の援助で東西を隔てた海峡をトンネルや橋で結ばれた)アジアからヨーロッパへとボスポラス海峡をフェリーで渡った。
ヨーロッパへと入った最初の国はブルガリアだった。当時は共産圏のなかでもルーマニアと並んで、比較的自由で、黒海の周辺には西側とあまり違わない沿岸はリゾート地だった。
その後西側ヨーロッパとは比較にならないほど、開発の遅れた国々で、その国の首都ですら中世の町並そのものように思われた。ましてや地方は藁葺き屋根、古い教会、その先塔や農家の屋根にはコウノトリが羽を休め、林や森など、まるで古い物語の中に続く道ともいえた。
ルーマニア、スロベニア、ユーゴスラビア、チェコ・スロバキア、ポーランドと、それぞれ国はことなっても同じソ連の傘の下、いろいろな制約があり活気のない人々が行き交う街、
不便なことは山ほどあっても旅人にとってはのどかな国々だった。
ただし1900年代後半に起こった旧ユーゴスラビア解体、スロベニア独立戦争、クロアチア内戦、ボスニア内戦、コソボ独立のほか、宗教戦争と残忍な戦いにあけくれたとは、想像もできなかった。その残酷な争いの歴史の後、2000年代にこれらの国の一部を訪れる機会があったが、焼かれた家屋、崩された橋や鉄道など当時の残骸が多く見られた。
当時のソ連へ入国するために必要な車の入国手続きをするためチェコの首都プラハに着いた。が役所仕事はどこも同じ、サービスなどのない当時の共産圏はなおのこと、ここでは10分ですむことが4日間を費やした。(当時は車の通行証が必要)その名はカルネといい、入国に必要な保証金が保証されたもの。当時は車の入国は、その国への輸出車とされ、車の数倍の金額が課せられていた。個人での車の持ち込みは難しく、私の場合は車を提供してくれたトヨタ自動車が書類上の肩代わりし、カルネは日本自動車協会が発行した。
笑い話ではあったが、昼食をとろうと、過ぎゆく街や村でレストランを探したが見当たらない。食堂もお茶も宿までも、そこがなにであるか知らせるものがない。看板がほとんどないのだ。道行く人に尋ねたら、親切に「ここだ」と教えてくれた。ところが、ドアを開けて入るとだれもいない。
空腹の私はテーブルについていると、大柄の太ったおばさんがなにやら大声で叫んだと思ったら、そのたくましい体で、つまみだすように、私をドアの外へ。意味がわからずその場に立ち尽くしていたら「食堂はまだ時間外だ!」と道ゆく人が教えてくれた。首都プラハの食堂では夕食時、料金によってのパンとスープ、おかずはバイキングスタイルだが、空腹だった私は食べ切れないほどの料理皿を盆にのせた。大勢の視線を感じてあたりを見渡せば、仕事帰りの大人が堅いパンと一杯の野菜スープだけだった。
広大な砂漠の中に遊牧民のテントが点在し、また20から30kmおきには土造り民家が集まる村がある。村にはキャラバンサライ(旅人の簡易旅館)があるが宿には必ず泊まれるとは限らない。時には民家が泊めてくれることもある。砂漠の自然は厳しく、突然の砂嵐や、夜道の危険をかねての、互いの助け合いだ。砂漠の民の思いやりだ。この優しさに感動したが、2泊目以降は法外な物品が要求されることもある、とあるオアシスに住む老人が教えてくれた。厳しい自然の中の助け合いだ。
女性に対する厳しい掟もあるが、厳しい自然、部族間の争いの明け暮れの世界。ひとりで生きることはできない。ましてや女性子供にはすべもない。と砂漠での生活では納得していたが、今日のタリバン政権のように女性に教育は認めないことなどもってのほか。また国の農業用地の3分の1も潤す用水路をつくった中村医師を殺害した国であることは許せないが、、、。
遊牧民の少年は、小さい時から旅や放牧で地理を教えられ、旅に連れられながら地形や地質、自然の猛威から食料としての動物の扱いなどを生きるすべを学ぶ。女の子は水くみ以外また親類の男性を伴う以外、住居のまわりしか外出を許されない。そんな中、中島と別れ、女ひとり東ヨーロッパを巡り、再びヨーロッパ側からアジアへボスポラス海峡を渡った。
トルコに入国、首都アンカラから東へ、トルコの広大な領地の大半を占めるアナトリア高原を東へ、旧約聖書の中(ノアの箱舟)の物語にあるアララット山の麓の長い道を行く。
トルコよりエルブルーズ山脈を越えカスピ海沿岸を走り、アフガニスタンへと入る。この長い道は、実に変化にとんでいた。乾いた岩山の続く山岳地帯を抜けると、カスピ海沿岸に広がる大地には稲作の青が広がっていた。そこには藁葺き屋根の民家も見られ、日本の東北地方の風景に似ていた。砂漠の国イランとのイメージは一変、山脈の北は農業の盛んな穀物地帯だった。
長年国際的な制約を課せられているイランだが、食料も自給でき、過酷な制裁に耐えられる強い国なのだ。余談になるが、首都テヘランの王宮の建築、中に陳列された宝物の膨大な数を眺めただけで、かつてのペルシャ帝国の威光が今日の強さを物語っているようだった。
緑の景色に一息入れたあと、再び乾燥した砂漠の国アフガニスタンへと入る。
国境を越えると、再び果てしなく乾いた山々、広がる砂漠地帯へ。アフガニスタンへ入国後、間もなく国境の町ヘラートという町に入った。舗装されていない街の主要道路、四つ角の交差点では、ポリスが交通整理をしていた。ポリスが私の車を誘導したが、誤まって長距離バスに接触、左側のドアガラスが割れた。はじめての事故である。
責任を感じたのかポリスは仲裁し、バスの運転手に罰金を命じた。米ドルで20ドル位だったが、ドライバーにとっては1か月の給料分だという。それを聞いて私は受け取ることを放棄した。町の工場でプラスチックの板で応急処置。この日は警察の敷地で車泊。町の中で女ひとりの夜は危険だからとか。イランとアフガニスタンでは、「女性のひとり旅はコーランに反する」とかで宿は断られるこが多かった。ここで一晩の宿を世話してくれる砂漠の民の相互扶助に助けられ、泥壁に囲われた民家の敷地内を利用させてもらった。
アフガニスタンの山間部は、これぞといった産業もなく、公に麻薬栽培がおこなわれていた。長老が村を仕切り、家では家長制度が厳しく残る。田舎をひとりで旅していても見張ってくれる長老がなんとも頼もしい存在だった。
長老たちは茶屋でチャイを飲み談笑するかたわら、麻薬であるハッシシーと呼ばれるアヘンを回し飲み
「ハッシシーは老人のもの。幻覚を楽しみ極楽の世界のまま、いつかあの世へいく」
近くで若者たちは老人たちの姿を見守っていた。こんな光景を幾度となく出会うことがあり、穏やかなにを過ごす老人たちの優しい目を思い出す。内戦に明け暮れするいまのアフガニスタンとは思えない自然な風景であった。昔は良かったー、振り返ると、そんな気持ちが沸き上がってきた。

タリバンが破壊する寸前のバーミアンの石仏
当時は穏やかに見えたアフガン人も、かつてはアーリア系が半分を占め、ほかにいくつかの民族で構成されていた。中世に入ってイスラム化、現在国を実効支配するタリバンはイスラムの神学校で学ぶ、または学んだ「学生」で構成されている。
首都カブールからバーミアンまで、道に迷いながら、燃料もなくなる寸前、かつてジンギスカーンに生きとし生きるものすべてを殺戮されたという谷の町、バーミアンに着いた。宿は木造の学校を改造したような粗末な建物だったが、番人のような老人が気軽に受け入れてくれた。部屋の窓からは月の光に浮かぶ巨大な石仏が目に飛び込む。
イスラム教徒に剥ぎ取られたという顔面のない仏像に、この国の戦いの歴史が見えてくる。2003年にユネスコの世界遺産に指定された石像(高さ55メートル)がタリバンによって破壊され、当時世界中が見守る中、テレビ放映された仏像の爆破記憶は、まだ多くの人に記憶の中にある。
当時イギリスからインドまでをつなぐ幹線道路を「アジアハイウェイ」と呼ばれていた。この道は一応舗装され、各国のメインロードで、路面の良し悪しはあっても隣国へは繋がっていた。古代ぺルシャの英雄マケドニア国王アレキサンドロスも、アジアへの遠征でこの道を通ったと峠の手前でシャイハネ(お茶や)の主人が教えてくれた。真実のほどは不明だが、パキスタンへ通じるヒンドゥークシ山脈手前で引き返したという。その兵士たちが、この峠の下でナツメヤシを食べ、その種がこの植物の、東限だともいう。荒涼とした岩山と砂漠の世界、わずかな緑にたわわに実るヤシの小さな実に大きなロマンを感じていた。
現在でも山脈を超えるカイバル峠は治安が悪いと聞く。当時も治安は最悪で、その上、夜道には山賊が出没する、と驚かされていた。峠への道は路面の舗装はなきに等しい悪路。乾いた岩山や崖から落ちた大小さまざまな石が転がり眼下は切り立った岩山である。行きかう車のほとんどは物資を積んだトラックだった。すれ違いに苦労し、急カーブをいくつも越えながら峠へ着いたのは、あたりが暗くなるころだった。
峠の食堂でキャバブー(羊の肉の串焼き)の食事をとっていると、銃を肩にかけた男たちが大勢押しかけ、みせものを見るような目つきで、私を囲んでいた。イスラム圏で、女性、しかも外国のみたこともない人を見物だ。みられることには慣れていたが、ここには即戦闘もできる銃を持つ男たちが、無言のまま見つめていた。いきなり撃たれるとは思わなかったけど、あまり気持ちのよいものではない。
ただここでも長老は麻薬の使用がゆるされていて、銃を持つ若者たちに囲まれ優しい目で私を見ていた。まだ長老には威厳のある世界だった。そんな長老に見守られながら、イスラム世界を無事走り抜けてきた。翌日、パキスタン領に入り、首都イスラマバードへ。遷都したばかりの新しい町は植樹された緑に囲われ、立ち並ぶ建物は洋館風だった。
これよりインドへ向かう。

雨期でもないのに国境を越えると湿度の高い空気とぬめるような赤土の道、インド入国と同時に気候までが一変。国境でインド入国手続きを済ますと、いきなりこの赤土の道をずるずると滑るようにゆっくりとアクセルを踏む。わずか1キロもいかないうちに黒山になってうごめいているハゲタカの群れを見た。近づくと群れは散り、その中には牛の死骸に犬が一頭、牛の死骸の腹に食いついていてはなれようともしない。
そこへ10歳位の少年が寄ってきて「バクシシー(お恵みを)」と繰り返しながら私に手を出し、足を引っ張った。その手足は曲がり歩くことも困難な少年だ。見かねて持ち歩いていたパンを与えると、どこからか少年たちが5、6人、やっと手にいれたばかりのパンを、少年は彼らにむしりとられていた。と同時に目の見えない人、手足のない人など大勢が駆けつけ「バクシシー」と叫ばれた。そして大勢の人に囲まれ、やっとの思いでその場を逃れると、車の先には巨大な象が道を塞いでいた。そして象つかいのおじさんまでが「バクシシー」と手を出してきた。物乞いの多くは“らい病”(ハンセン氏病)とか。国境付近でのショッキングな出来事に恐怖を感じたが、もう引き返すわけにはいかなかった。
ガンジス川の最大の支流ヤムナー川沿いにアジアハイウエーが走る。この道はインド第2の都市といわれたカルカッタまで続く。一応、路面は舗装されていたが、赤土や牛の糞、動物の死骸、縦横に動く牛の群れが行く手を阻む。その上、信号やルールを無視した人の群れが勝手に路上を歩く。これらをかき分けて動く車に、人々はぶつかっても振り向きもしない。帰国後「インド人もびっくり」というカレーのコマーシャルがテレビで流れていたが、 物事に驚くインド人などに出あったことはなかった。
人や牛の群れ、ゴミや水たまり勝手に歩く人の群れ、村や町をやっと走り抜けると、凹凸の名ばかりのハイウエーは、積載量が多すぎて横転しているトラック、干し草をやまほど摘んだ牛車がゆっくりと道を塞ぐ。その上、路面には得たいもしれないゴミがいっぱいで、何回タイヤがパンクしただろうか。
こうしてやっとみつけた宿はコンクリートの床の上に戸板が一つ。持参の寝袋が活躍だ。が夜にも気温の下がらない猛暑だ。
トイレはドアの外、「どこでもどうぞ」だった。
薄暗い電球、町を離れると、ランタンだけ。たべものはカレーのみ。その辛さはただごとではない。
首都ニューデリーには日本食も中華料理も洋食もなんでもあった。籾殻や砂混じりの堅い米に、飛び上がるほど辛いカレーで過ごしてきた私は何でもガツガツ食べた。長老の少ない都市では、見守ってくれる人もいなかったが、どこにでも親切な人はいた。マハラジャだという男たちが3人、「宮殿の敷地に泊まれ」という。警戒している私の前に警察官だという制服を着た男が3人。そうこうしているうちに物見高い男たちが押し寄せ、私と車は人の山に埋もれた。
その夜はかつて宮殿だった石造りの一室に、ベッドまで用意してくれたばかりか、暑い夜、寝付くまでか大きなうちわで仰ぐ人、いろいろ世話をしてくれる2人の女性までつけてくれた。
インド独立時に、この制度は廃止されたとはいえ、このころにはまだカーストという制度が色濃く残っていた。
王族貴族からヒンドウ教の教えには信者を4つの階級に分けられ、最下級は、その4段階のその外、不可蝕賤民とされ、社会には加われない人たちだ。彼らが人工の半分以上を占めている。
彼らの望みは聖なる川、ガンジス川で身を清め、ここ聖地ベナレスの地で死を迎えること。
大河に身を任せながら、口をゆすぎ、体を洗い、身につけたままの衣を洗濯し、排泄までする。これよりカルカッタまでの道中、通りすがりの村や町、大河の川縁で目にした光景に、人の生き様、その強さと弱さを思い知らされる日々だった。
ヒンズー教の聖地ベナレスへ(現在バラナシ)

タージマハル。ムガール帝国5代目皇帝シャー・ジャハーンが王妃ムムターズ・マハルを悼み建設した。
近くの寺院の入り口には、力尽きたのか壁に横たわったままビクとも動かない老人の姿も。
声をかけようと近づくとそばに座る老婆が「この人は死んでいる」といい、「恵みを」と、私の足をつかんでいた。
通り過ぎる町や村、人々の生活の中に川がある。
河原で休んでいると川縁に薪を積む人が数人、その積まれた薪の上に、粗末な布に包んだ物体が乗せられた、明らかに人間だ。すぐに火が放たれ人は炎に包まれた。死者を荼毘に伏したところだった。完全に燃えるのには薪の量が少なく、まだ灰になりきらない遺体は、そのまま川へ。どこからともなく野犬が集まり、川へと飛び込む。
生と死が渾然一体となった世界、もう少し自分の頭で考えたいと、名前も知らないこの町で一泊した。
翌早朝、川縁の道をゆっくり車で散歩した。どこからとなく荷車が現れた。荷台には犬猫などの動物の死骸が乗せられていた。よく見ると人の形をした麻袋まで乗せられていた。どこへ行くかと後をつけたら、水辺に荷車を立ててすべて川の流れの中へ。
そろそろ人通りも賑やかになるころ、カップいっぱいの具のないようなカレーを売る男が現れた。日本円で10円にも満たない金額で売る男の横には、もう生きているとは思えない生まれたばかりの赤子を抱いた女が座りこんでいた。
路上で生まれ、路上で死んでいく。村や町には公営の火葬場もあるが大半は聖地にはほど遠い路上で屍をさらす。かれらの生きた尊厳だけは守りたいと、水知らずの人の死体を集めて火葬し、聖なる川へと送る人もいた。
カーストなどと生まれながら差別され、人としての尊厳もなく、それでも生きてきたのにこの世に証もない。しかし、平安時代の日本にも寺院やその周辺には屍が転がる光景を、当時の書物にも残されている。またローマ時代の歴史書にも、石造りの建物の行き止まり路地には人の死体やゴミが転がっていたとある。また街道には戦いの後、屍が累々と続いていたと多くの歴史書や小説にもなっている。

ベナレス。インダス川畔で荼毘
こうして世代や時代を経ながら、大半の人類は苦難苦痛の中に生き世代を重ねてきた。また生物としての種の繁栄のため、多くは過酷な生き方を強いられてきた。そんな人類すべてに限らず生存競争の厳しさは、生きとし生きるものの宿命である。その現代版を、私はここインドに見たと思う。
インドからネパールへ入ると、天地がひっくり返ったような静けさと、白く輝くヒマラヤの峰に、同じ地球上の光景とは思えなかった。
昔ながらの家屋、歴史ある古い寺院、路地には民族衣装を身につけた人々が行き交う。人通りも少なく、物乞いは路上に座り込むほどのどかであった。私は首都カトマンズから少し離れた小高い山の上に寺院の敷地を借りて、ここで長い休みをとった。
1971年、まだオーストラリアが「白豪主義」社会と呼ばれ、人種差別のひどいころのこと、ジープと乗用車と2台の車で中島とオーストラリアへ、2ヶ月の旅である。
そして、まだ「空白の大陸」ともいわれるほど、この広大な大陸の多くは未開であった。原住民であるアボリニーズ(この広大な大陸に数万人しかいなかったという民族)を、同化、または保護しようとしていた時代だ。たった5〜60年前のこと。今や大勢の移民を迎え、移民の国家ともいえる。しかもあれほど嫌われていた、アジア・アフリカなどからの有色人種だ。

かつてはこの広大な原野に点在する家、多くは牧場経営者だと聞いた。その数少ない白人住民にジュースや魚や肉などの缶詰から日用雑貨などを売る小さな店もあり、その店の経営者もまだ白人であったころのこと。缶詰の一つも買うつもりで入った途端、顔を見るなり日本人か「缶詰は売ってやるから店に入るな!」であった。これほどひどくはないが、荒野に点在する小さな小売り店では不愉快な思いも少なくなかった。
そんな旅の中、野宿を重ねてたどり着いた西の荒野に小さな村を見つけた。とにかく道もほとんどなく、車の轍だけが途切れ途切れあるというブッシュ地帯、太陽と磁石だけが頼りに、大陸を一回りの旅をしていた。そんな野宿の続いたある日のこと、そこは粗末な木造と簡単なプレハブ住宅が数戸点在する作業場のようなところにであった。
出会うはカンガルーと大空に舞う鷲、ユウカリの林、やかましく鳴く多種類のインコの群れ、赤土の大地にはヘビやトカゲ、そんな世界から久しぶりの建物と人間に出会い、私たちは喜んで訪ねた。プレハブの家の中へと案内された。中にはテーブルが一つと椅子3つ、ロープやランタン、ガソリンタンク、など、生活とは無関係なものが置かれ男性が3人、2人は白人、一人は肌の色が黒く上半身裸で頭も体も、大陸特有の赤茶けた砂にまみれた中年の男だった。
彼は言葉もなく明らかに原住民である。与えられたコップの水を両方の手で持ちペチャペチャと音を立てて飲むというよりなめていた。テーブルにはわずかな書類があり、二人の男は役人で、原住民の調査をしているという。
お役人の話によると、この広い荒野に家族単位で生きる彼らを施設に送り、教育をして文明社会に同化させるのだという。
褐色の男を指さして「こいつは今朝ブッッシュから“キャッチ”してきた」といい「今日はこのまま100km離れた施設に送るのだという。
「キャッチ(捕まえた)という言葉には違和感があるが、カレには心配する家族がいるはずだ。
「心配ないよ、明日には家族をさがして、同じ施設につれていくから」
といった。
あきらかに、かれらを人間扱いなどしていない。
大陸の東海岸、シドニーは近代的な都会だったが、南のメルボルンやアデレード西のパースなどは、アメリカの西部劇のシーンのような町で、馬の蹄が聞こえてきそうな町並だった。内陸には牧場が多く、牧場主は自分の放牧している牛の頭数すら把握できないとか。牛の死骸を何頭も見た。これら放置された死骸を食べる動物もいない大陸だ。死骸はハエの繁殖場でもあった。このハエには旅行中、悩まされ続けた。
確かに雄大な大地、鉱山開発で至るところで掘り起こされ、無数と表現ができるほどのカンガルーが車のエンジン音に驚いて、跳ねまわる。未開の大陸、いまは高層ビルも立ち並ぶ大都会の映像などテレビで見る。資源国家となって人々は豊かな生活を送っているようだが、ブッシュの荒野の中で、“キヤッチ”された原住民とその仲間は、いま幸せに暮らしているだろうか?

1972年5月アフリカの各国のビザをとるためパリへ。フランスよりエジプトのカイロへと飛んだ。これより列車でアスワンへ。
当時は世界中の交通機関の路線と時刻表が載ったトーマスクックという本があった。世界に君臨したイギリスの面影を残す世界の情報誌ともいえた。日本で海外旅行は始まったばかりで、このトーマスクックを持ち歩いての一人旅は珍しかった(時間表やミュシュランの世界ロードマップは、記憶によれば日本橋丸善しか手に入らなかった)。
そのトーマスクックを手にカイロからナイル川を船で2日、船といっても長さ10mほどの荷物運搬船のようなものを三隻並べて板を渡してつないだだけ、真ん中の船を挟んで、進行方向左の舟は人一人が横になれる個室が5つ並ぶ1等船室、右側が雑魚寝の3等船室それぞれの屋根には日よけ用テントが張られていた。ルクスオールからスーダンとの国境であるアスワンまで2日行程、さらにそこから列車に乗り継ぎ2日間、スーダンの首都ハルツームまで陸路を列車だ。
スーダンの北部砂漠地帯を走る沿線には、村も町もなく、停車する駅名はナンバー1、2、3、、、であり、そこにはホームはないが必ず井戸があった。どこから来たのかお茶や果物などを売る人が線路脇に集まっていた。列車には一両の食堂車があったが、パンと具のわずかなスープ、それに肉のようなものもあったが、食欲はわかなかった。もちろん冷房もない社内は列車が巻き上げる砂と、乾いた風があけ放れた窓から容赦なく車内に舞う。さらにハルツームから空路でウガンダへ。再び首都カンパラから、列車に乗りケニアを通って3日間、タンザニアの首都ダルエスサラームへたどり着いた。
なぜダルエスサラームかというと、南アフリカから北欧ノルウエーの最北端、北極点までを地球を縦断、ドライブ旅行をルポ、その旅行記を新聞で連載するという壮大な計画を立て、実行しようとする中島とカメラマンM氏と合流するためだった。中島と旅のペアを組んで3年あまり。彼は勤め先の新聞社へ旅行記を、私はフリーで多種多様な旅行記を掲載する仕事だった。このころは仕事仲間を越えて、あらゆる面で助けあうパートナーになっていた。
ダルエスサラームの日本大使館が私たちの連絡場所だった。お互い現在どこにいてどこへ向かっているか、何が起こっているか全く不明のまま、私は町外れの小さな宿で一週間を過ごした。
合流した私たちはキリマンジェロ山の麓を通って、カバやゾウの密集地のようないくつかのナショナルパークを走り抜けウガンダからコンゴへと入った。私にとって5年ぶりのアフリカだったが、このあたりは、まだ観光地で、自分で危険を冒さない限り安全なところだ。しかし、パリで入手したザイール(現在のコンゴ共和国)へのビザの入国期限が切れていた。一瞬困ったと思ったが、10米ドル紙幣をパスポートへ挟んだら、すぐOKがでた。
ここからは山岳地帯とジャングル、大河コンゴ川の源流や支流をいくども渡る危険なドライブだ。もちろん舗装もない赤土のぬかる道、橋もない浅いが道幅の広い川床を一週間ほど走り抜けた。途中、小さな村や町らしい集落もあった。しかし、農園の痕跡が広がり、昔は賑わいもあったろうと思えるコンゴの村で、焼き豚肉があるというので、即頼んだら、すぐ窓下で走り回っていた豚の悲鳴。まさかと思ったら、いつしか村人は集まり、豚肉を囲んで賑やかな宴会が始まった。私たちはたった一枚の皿にのったソテーにした料理だったが、豚一頭の料金はもちろんこっちもちだ。5年前サルの頭のスープを飲まされたことを思い出す。
中央アフリカではかつての植民地時代は豪華だったであろうホテルがあったがベッドはきしみ、カーテンは切れて外れ、ドアも閉まらずだ。またカメルーンの村には、昔ながらの隊商宿があり、珍しく気が利いたレストランもあった。
思い出すといえば5年前のアフリカ旅行のこと。当時はキリマンジェロや、ルエンゾリ山への登山が目的であったが、まだ「暗黒の大陸」と言われ、アフリカ約50カ国の国々の多くがヨーロッパ列強の植民地の名残があった。1960年代には植民値から解放され、独立、または独立を目指しての内戦勃発の機運がたかまっていた時代だった。
それでもまだ{暗黒の大陸から独立}という時代の流れに、現実はともかく各国の人々は喜びに沸いていた。白人の残した秩序、アフリカ人が持つ部族間のルールを持つ村や町は、複雑化する規則などの戸惑いながらも穏やかだった。
月のない真っ暗な夜道に、眼だけが光る黒人同士のデート、音のないジャングルの中の雨、通信手段という太鼓の音、町の中ではタムタムの激しいリズムの中、狂おしいほどに踊る人々、村のまわりには野生動物の光る目、だれも様子を気にしていない。昼間は白人の残した痩せた畑から穀物・コーヒー・バナナなどを畑から収穫し、路端で売っていた。手入れのされない畑はいずれ収穫がなくなるが、そんなことは気にしない、一見平和そうであった。
しかし、5年後のアフリカはかつて植民値時代に線引きされた国境を巡って部族間や資源の争奪で内戦はおこり初めていた。
久しぶりにシャワーとおいしい食事に満足しながら、窓の外に何やら生き物の気配を感じながら、ふと日本で友人と人生について語りあったことを思い出した。「好き勝手な生き方をして楽しい人生を送っているようだけど、いつまでも若くないことを考えてみたことがある?」と8歳年上の40歳になる女友達が、真剣に問いかけてきた。このころは世界を知るほどに自分の生まれ育った日本のことが知りたくなり、国内旅行に明け暮れてもいた。
「女性には大きなタイムリミットがあるのよ。いくら望んでもでも手に入れられない時が来る」
というこれからの人生を真剣に語った友達の言葉が胸に刺さった。そしてなぜかアフリカの奥、カメルーンの宿で窓辺で漆黒の闇を見つめながら、友人との会話を思い出していた。

タッシリナジールへ。
ヨーロッパ(ベルギー、オランダ、ハーグ)―フランス(パリ)―スぺイン(ジブラルタル)
モロッコーアルジェリアーリビアーリビアーチャドーニジェールーナイジェリア
トヨタ自動車から4回目の提供を受けた車をベルギーで受け取り、スぺインとアフリカのモロッコを結ぶジブラルタル海峡をフェリーで渡る。1975年のことだった。
目的はサハラ砂漠に点々と続く、太古の壁画の謎を追っての旅だった。
総面積は日本の22倍、この地に生きるトァレグ族の言語で不毛の“褐色の大地”がサハラと呼ばれていた。ここに約1万年も前から人々が生活を営み、文化を築いた。
サハラが乾燥し始めたのは紀元前2000~1500年ごろと言われ、現在の状態になったのは紀元前後だという。以前の緑だった時代には、鹿やカバといった草食動物が住み、岩山や谷間にはおびただしい数の壁画が描かれている。これらは20世紀に入り、フランス植民値時代フランス人によった発見、研究されていたが、アルジェリアの内戦により、発掘も研究も滞ったままと聞く
人々は西アフリカのガーナや東はスーダン、遠くエジプトと交易もしていた。
リビアの首都トリポリからガダメス経由で、アルジェリアの東イリジー、ジャネト経由へタマラセットへと通じる“古代の道”へ。このあたりはサハラが乾燥する以前、水が流れ緑の沃野であった。石器時代ゾウやサイなどの大型動物が生息していたという。その後の気候変動により人と動物の移動がくりかえされ、現在の不毛の大地になったのはおよそ、紀元前5000年から期限後400年ごろのことといわれている。この長い歴史を4つの時代に区別している。
「狩猟時代」
「牛の時代」(紀元前5000から3500年)
「馬の時代」(紀元前3500〜2000年)
そして「ラクダの時代」(起源後400年)へと続く。
なかでもサハラの随所に見られる馬車の壁画をたどると、リビアの海岸から内陸のニジェール川の川岸まで続く。それは、古代の人々がすでに地中海から西アフリカへ達していたこと。前5世紀の歴史学者ヘロトドスが書き残した歴史書にガラマンテス人の四頭立ての馬車が、エチオピア人(黒い肌の人)を追い立てた、という一説を裏付けるものであった。この馬車を駆り立てて走った古代の道に車を走らせ、時には渓谷沿いをラクダの背に揺られながら訪ね歩いた。これはかなり過酷な旅だった。
砂漠といえば日本人のイメージでは砂丘を思う人が多いが、土や、小石、がれきのような土、また岩山など様々で、共通はほぼ不毛地帯であるということ。ロマンチックな絵のように砂丘をいく旅人の姿などはほとんどない。砂丘は風によって動き、人々は砂丘を避けて歩く。古代からの道はたとえ遠回りであっても岩山に沿い、谷間を抜けて続いている。そこには日差しを避ける岩があり、地下水が流れる小さなオアシスがある。水辺には人の営みがあり、昆虫や動物たちがいる。
しかしサハラは広大だ。一日車を走らせても、人にも民家にも出会うことがない日もあった。道らしきものもなく褐色の大地に、無数の車の轍があるだけの荒野。やっとたどり着いた村や町。いまのようにスマホやGPSもない時代、旅人はこの広大な不毛地帯を迷わず旅をするのかを尋ねた。あるトアレグ族の若者は、サハラ砂漠の隅々までに親戚が住んでいるのだという。遠い昔から砂漠に存在する同じ部族のもの同士が婚姻、国境など関係ないという。こうして親戚を頼って旅をするため、土地情報は熟知、そして荷物もほとんど持たず食料も水も記憶の中にあるという。
ラクダの旅は朝4時頃、一杯のお茶を飲んでキャンプ地を出発、10時に朝食を済ますと午後2時までは休み。食後、岩陰で一休み、放牧したラクダも連れ戻し、一番太陽が高い真夏の午後2時には出発。真夏の砂漠の気候は過酷だ。摂氏50度を越えることも珍しくない。午後2時は、陽が傾き出しこれから気温が下がるだけである。そして午後6時頃、その日のキャンプ地に着く。砂漠の夜は寒いほど気温が下がる。風や砂嵐を避ける岩陰や岩穴を自ら寝場所を探しての野宿である。
ここで寄り道・私の言葉について少し話そう
英語はもちろんのこと、世界中の言葉で不自由なく使えるのは日本語だけ。だが様々な国を旅していながら、言葉に特別困ったこともなく、現地の人々とかなりの意思疎通が可能なことはなぜか。
人見知りしないこと。わからなくても相手の言葉を聞くこと。相手の顔をよく見ること。親しくなりそうだったら自国語のよく使う単語など10単語教えること、また相手の言葉を10単語覚えること。時間をとること。ツアー旅行と異なり、自分の時間は自分で作れるから表情をしっかりみて、できれば相手の生活圏を探索すること。とくに家族などの噺を聞きながらその人の雰囲気や言葉の様子などを観察すれば、会話は成立。実践が伴う言葉は身にしみて伝わるもの。
現代のようにスマホで同時通訳での会話も助かるが、目と耳、口などの表情があれば、背景や物語のない言葉より、相手に通じるものだ。
こうして何語も恐れず世界を旅してきた。おおきな失敗も危険などにも合わずに。
アルジェリアの西、リビアに近い山岳地にイリジー渓谷があり、その谷間に一万年以上前と言われる動物の線刻がある。これよりジャネット村より西に広がる岩山の山岳地帯には、起源前5000年から前3000年ころという顔料で描かれた踊る人の姿、鹿や、カバなどの動物が無数に描かれ、中でも二輪の馬車を駆る兵士の絵は、エジプトやローマとの交流の証として価値ある絵だという。タッシリナジェールの壁画として貴重な遺跡だが、現在はアルジェリアやリビアなどの内戦や政治不和で、観光地どころか近づくことすら難しいとか。